ハネケ監督「愛、アムール」 夫婦のダンスはいつまでも続く 感想
ミヒャエル・ハネケ監督 2012年 オーストリア、フランス、ドイツ
最愛の人だから 話がこじれる
発作から半身麻痺の後遺症を残し、認知症を患っていく妻と、「もう入院はさせない」という約束をした夫の愛のストーリー。
見終わって、あまりの重苦しさに、息をついた。
だれもがきれいに歳をとって、きれいに最期を迎えるという奇跡は望めないことはわかっている。けれど、徐々に自分を失ってしまうなら、残していく家族とどうやって別れればいいのか、元気な時の意識がなくなってからでは、選びようもない。
そして、愛があるからこそ、がんじがらめになっていく介護者。妻を献身的に介護しているこの夫は不幸なのか、至福なのか誰にも判断はできないんだろうと思った。
そういう、一歩引いた目で作られたストーリーに、淡々としているからこそ戸惑う。
ぎこちなく身体を支え、妻を移動させる夫。その歩みはたどたどしいダンスを踊っているようだった。
そして、娘役のイザベル・ユペールの存在感。夫婦の間には入っていけない愛の膜があって、家族であってもそれは破ることはできない。そういう寂しさを表現していた。
世界に妻と夫の二人だけだったら、自由に、二人の思い通りにできるのだろうか。この作品は、そんなおとぎ話のような愛の話なのかもしれないと思った。
人生の終わり、誰と過ごすのか、今はまだわからない。でも必ず来るその時を思わせる重い作品だ。
哀しい愛を抱えて クレール・ドゥニ 「ガーゴイル」 感想
愛は哀しい 非情な病に悩む二人
情事の際に発動するカンニバリズムを持つ病が、現代社会にあるとしたら…。
ヴァンパイアのように哀しい宿命を持つ、病に侵された男女のそれぞれの生き方を描いた問題作。
この病の持つ、愛するほどに愛せない苦しみ。
愛する妻を前に何もできない悲しい男シェーンを、ヴィンセント・ギャロが演じている。妻のジューンの、無垢でまっすぐなまなざしが彼を苦しめている。そして狂気を秘めたつぶらな瞳が、夜の街で暗く輝く。どちらも目で語る演技が印象深い。
一方、自分の中の情動を持て余すほど病の進行した女コレを、ベアトリス・ダルが演じる。よなよな男を誘う哀しい性が美しくも恐ろしい。彼女の微笑は、恐怖の入り口だ。
そして、彼女の夫で医師のレオ。屈強な肉体で彼女を受け止め、保護・監督している。レオが、大型のカッコいいバイクに乗って駆けるシーンが忘れられない。彼が同じ病を持つシェーンとコレを繋ぐ糸になっている。
ギャロと可愛い子のジャケットで甘い世界を夢見て手にしては、絶対にいけない作品。
本当に背筋が凍るグロイ表現が多々あり危険だ。目をつぶってしまうシーンも。
でも、恐怖をあおるのではなく、淡々と進行していく物語がとにかく哀しい。
愛は哀しいものでもある、と、思い出させてくれる。
クレール・ドゥニの愛の美学
過去にあった、クレール・ドゥニ監督と黒沢清監督とのインタビュー記事で、
カンニバリズムが主題ではなく、「食べてしまいたい」という愛情表現を取り扱っているとある。
フランスでは赤ちゃんに対して、「Je vais te manger de baisers(キスで食べてしまいたい)」という言い方をしますけど、この映画も触覚文化的(culture tactile)なもので、所謂人食いとは全く違うものです。 (クレール・ドゥニ談)
一見、グロっぽい内容だが、描かれている世界観は人の孤独や愛の葛藤といった抽象的なものなのかもしれないと思う。
だれかを自分に取り込みたいと思うほどの執着心が「愛」の中にはあるのかもしれない。ガーゴイル(怪物)は心の中にいる。この作品には、そういう、目を向けられない様な恐ろしい指摘をされる、背筋の寒さも同時に感じさせるのだ。
「黒水仙」 高潔で禁欲的な尼僧界のスキャンダル 感想
ナルシシズムを感じる高潔さを憎む
水仙は神話のナルシスにも通じる、うぬぼれ屋のイメージがある花で毒もある。黒水仙なんてものは存在していないのだけれど、ブラックなイメージが全開の作品だ。
ヒマラヤの奥地の教会に赴任してきた尼僧たちが、孤独と宗教心、恋愛感情の間で煩悶し、精神に異常をきたすものが出るというストーリーはブラック。
主人公のシスタークローダ(デボラ・カー)はまさに高潔の鏡のような尼僧で、自分の感情を殺しながら神に使えている。過酷な環境に打ちひしがれるが、心の迷いを断ち切り、宗教心に生きることに決めるところが憎たらしいほど高潔。
彼女は美しいけれど、陶器のような冷たさも感じる。
この作品の一番の魅力は、恋に狂ったシスター・ルースだ。この作品での演技を買われて渡ったハリウッドでも、同じような精神異常者の役を求められ苦労したという逸話もある。
クローダをがけから突き落とそうとするが、失敗した刹那に、自分がその場で落ちて死ぬことが最もクローダを苦しめるだろうと考えるなんて、こわ…。
このシーンが忘れられない。
※恋敵であり、高潔なクローダを見るこの目です!本当に怖いんだから!
マイケル・パウエルの極彩色と狂気の世界
マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーのコンビで「黒水仙」の原作を脚色し監督製作、ジャック・カーディフがテクニカラーで撮影。といえば、「赤い靴」が思い出される。
おなじみの赤い靴の童話を脚色したミュージカル・バレエ映画なんだけど、これも赤い色が攻めてくるような脅迫感のある作品だ。作品の負のイメージを増幅させるように音楽や色彩を使う。
テクニカラーの現実とは違う次元の、ちょっと浮いた絵画のような感覚を芸術の域まで高めたジャック・カーディフの撮影は見事だ。だからこそ、彼らが集まって作る世界は恐ろしい。
筋書、役者、色彩まで見るものを虜にするほどの狂気を表現している。
フランス映画祭レポート 「ショコラ」 2016.6.26
「ショコラ!(仮題)」
あらすじ
19世紀末、大衆芸能文化が花開くパリで大成功をおさめたサーカスの目玉、黒人と白人の道化師のコンビ。ショコラ(オマール・シイ)はこの黒人の道化師のことだ。
落ち目の道化師フティット(ジェームス・ティエレ)が田舎のサーカスで人喰い人種を演じていた彼を目をつけ丹念に芸を仕込んだ。二人は野心を持って上京し、コンビでにパリで活躍をしていた。
しかし、黒人差別の社会のなかでショコラの富と名声をうらやむ者も増えてきて…。一時代を作った黒人の道化師ショコラの栄光と転落の人生を描くストーリー。
見どころ・感想
黒人だから面白いのか?彼だから面白いのか?
本当は才能あふれ、スターダムにのし上がっていったショコラだったのに、どんどん曇っていく将来の展望。
師弟関係を信じきれず、利用されているのではという猜疑心が深まっていき、うまくいかないところは歯がゆかった。二人の目を曇らせたのは黒人差別という時代背景なのは間違いない。
完璧な悪役もなく、責めるべき相手のいない、社会の問題をえぐる部分が秀逸。
才能があっても磨かなければ光らない芸の世界で、技を極めることの難しさを見せられた気がする。師匠の道化師役が(チャップリンの息子の)天才パフォーマーというところに技を極める情熱と過酷な道のりが垣間見える。
○○の息子だからということや、黒人だからということは関係ないところに芸事に対する評価があればシンプルなのに。どうしても目が曇ってしまうから、真摯に目の前のパフォーマンスを評価する目が必要なんだと感じた。
ほぼ満席の客と主演来日キャンセルという無念
主演のオマール・シイは来日がキャンセルになり、冒頭にユニフランス代表の挨拶と、オマールシイ本人からの短いビデオメッセージがあった。見終わって、この役者にあいたかったなと、悔しい思いを強くした。
周囲からも、これであいさつに来日していたら完璧だったという声も聞かれる。残念と感じるのが遅いところだ。
ショコラ!仮題は2017年に公開予定というユニフランス代表の言葉もあった、多くの人に見てほしい作品。
オマール・シイ出演の作品はこちらも感動的。スッとした眼差しが魅力的だ!
「フレンチなしあわせの見つけ方」 結婚してても恋しているのがフレンチ 感想
だから 結婚してる意味がある
誠実で気の合う夫(イヴァン・アタル)と、可愛い息子を持つ主人公(シャルロット・ゲンズブール)。自分の仕事も大切にして、何不自由ないパリの一家の日常を切り取った作品。
結婚していても、目移りすることはある。この作品では、まず、夫が独身のモテ男に嫉妬と羨望の眼差しを送っている。
その一方、良妻賢母な妻も、街中で出会った超イケメンの外国人(ジョニー・デップ!)にときめいてしまう。
誘惑に満ちたパリでの生活の中で、二人が夫婦でいる意味は一体何なんだろう。お互いを縛るだけの理なのか、そうではなく、試し続けることで愛を確認しているのか。
お互いがある程度、結婚関係は永遠ではないと割り切っていて、そのうえで魅力的でいる努力をしているのがまさにフレンチ。
しかし、ちょい役のイケメンにジョニー・デップはやりすぎだ。お似合いすぎて辛くなる。監督・主演のイヴァン・アタルはシャルロット・ゲンズブールと実生活でも夫婦。このキャスティングでも自分たちの愛に自信があるってことなんだろう。
シャルロット・ゲンズブールの飾らない美しさはいつ見ても素敵。監督が夫だからか、リラックスした雰囲気が感じられる。最近のラースフォントリアー監督の出演作より安心してみていられる。
この夫婦のタッグでは「僕の妻はシャルロット・ゲンズブール」も面白い。有名人の妻を持つ苦労と愛が溢れている。
※二人の娘アリスもモデルデビューということはジェーン・バーキンから三代続く美女の歴史がこれからも続いていくと、期待。
包容力のある恋に癒される 「ナタリー」 感想
キラキラな恋人からダサい恋人へ 見た目は関係ない恋の引力
絵にかいたような美しい恋人同士が、パリのカフェで出会い、うらやましくなるような生活を送っている。
それが一転、突然の死別。という最悪の結末を迎える。この物語はそこから始まる。
感情を押し殺したように、もくもくと仕事を続ける美しいナタリーの前に現れた、というかいたの?という感じのマーカスはまさにダサい男。
でも、なぜなの?
ナタリーはオフィスでマーカスに突然キスをしてしまう。セクハラ?パワハラ?
混乱を持って展開するストーリーは、癒えることない悲しみを持っていても、一人の女性として生き続けるナタリーの再生を描いている。
マーカス役のフランソワ・ダミアンは、大柄の男性で、スウェーデンから来たことになっている。イケメンの前恋人に比べると、ダサさが際立つ演出が随所に。素朴な外国人に癒されていくナタリーが可愛い。
イケメンの元恋人とは全く違ったマーカスに魅了された理由なんてないんだと思う。恋は不思議だということだ。
※フランソワ・ダミアンは「タンゴ・リブレ」「エール」などのほか、TVでも活躍しているらしい。普通の人を演じる名優としてフランスでは人気。
「シェルブールの雨傘」 ドヌーヴの美声・美貌に酔う 感想
ドヌーヴの美しい額が初々しい
フランス女優の大御所としての地位を不動に固めたカトリーヌ・ドヌーヴのうら若き21歳の時の作品が、代表作「シェルブールの雨傘」。ミシェル・ルグランの音楽をつけた、ジャック・ドゥミのテンポの良いミュージカル映画が面白くないはずがない。
アルジェリア戦争へ向かう恋人ギイと別れるシーンの高揚感は絵になるし、音楽も心情に合っているし、否応なく高まる。
作品のなかでも、始めはただのうぶな娘だったジュヌヴィエーヴがどんどん成長し、女の表情になり、最後は母になっている。これは通常の二十歳そこらの娘が演じきれるようなものではなく、天才というしかない。
天才の片りんを見せながらも、いまのようなどっしりしたゴージャス感ではなく、どこかはかないフワフワした女の子の魅力も併せ持っている。この年頃の女性が持つ武器を上手に使い分ける、かなりの女子力の高さがうかがえる。
この自信ありげにあげたおでことリボンの可愛さは、コケティッシュを最大限に利用する女子ならではの必殺技のようなものではないだろうか。
「ギイ…」と囁く傷心のドヌーブが痛いほど愛らしい。
カトリーヌ・ドヌーヴという人のすばらしさ
フランス・パリといえば恋に恋する土地柄だと思っている。カトリーヌ・ドヌーヴも実生活でもかなり恋多き女であり、男女の関係に対しても一家言ある人である。
ただ男性に恋い焦がれるだけではなく、かつて人工妊娠中絶の問題と女性の権利を訴えたことでも有名で、社会に影響を与える活動もしている。自立したフランス女性の姿そのものなのだ。
さらに、映画人としてのプロ意識はすさまじく、ラース・フォン・トリアーに手紙を書いて工場のおばさん役を演じるなど、実力に甘んじない真摯な姿勢がすばらしい。
「神様メール」でも、物議を醸す役柄に挑戦している。女優であることを心から楽しみ、謳歌しているので、見ていて気持ちが良い。この先も永遠に新作に登場してほしいと願ってしまう。
「ランジェ公爵夫人」 踏み越えることのない垣根がもどかしい 感想
公爵夫人の優雅な誘惑
なんだろう、見終わった後の遠い目になるかんじ。
ジャンヌ・バリバールはたおやかで上品で、でもえげつない公爵夫人を見事に演じきっていた。そして、ギヨーム・ドパルデューの将軍も武骨で繊細で、また駄々っ子のようで最高だった。
壊れそうなものを大切にしようとして、木っ端みじんに壊してしまう。破滅的な二人の関係がイライラを募らせた。時に猛獣のように怒り狂う将軍の様子は、もう、こちらの気分を代弁してくれているかのように感じる。
長椅子に横たわり誘惑しているのに、それ以上近づくことを許さない公爵夫人のずるさ。背徳的な貴族の社会にいながら、けがれることを嫌うプライドの高さ。そして、愛する心を知った後の献身と狂気に魅せられてしまう。
19世紀の世界観を再現
オノレ・ド・バルザックのフランス文学を原作にした作品である。この作家は貴族でもないのに○○ド○○を使っているように、階級社会に対して憧れと同時に批判的な精神も持っていたことが考えられる。自身も公爵夫人に恋心をいただいていたというので、リアリティと幻想が入り混じった内容になっている。
リヴィエットの「ランジェ公爵夫人」は、その作品を映像化しただけではなく世界観を素晴らしいロケーションで作り上げている。特に、最後の修道院のある島の風景とパイプオルガンの音楽、歌の響きは文学の世界の中に入ってしまったような錯覚を覚える。
物語に引き込まれ、映像の鮮明な美しさにタイムトリップしたような心地にさせてくれるかなりお気に入りの作品。これぞロマンティック(小説風)と思う。
※リヴェット作品ではおなじみのビュル・オジエが語る「ランジェ公爵夫人」の舞台裏。原作に忠実にといういつもと違う意気込みが感じられる。
「エコール」 見てはいけないものを見てしまった気分になる 感想
ルシール・アザリロヴィック監督 2004年 フランス
原題:Innocence(無垢)に込められた意味
日本名「エコール(学校)」の響きと原題「イノセンス(無垢)」ではとらえ方が異なる作品だ。
少女を集めて美しく育て上げる学校で起こる出来事を映しているから、エコールでも間違いないのだが、描かれている主題は少女の無垢さの喪失である。
6歳から11歳までの少女はさなぎから蝶に生まれ変わる時期のように繊細で、変化も大きい。まるで子供だったあどけない女の子が、一瞬女の顔に変わる年頃になる。
森の中のおとぎ話の世界のように、可愛い、きれいといった言葉だけで表現しきれない成長の怖さを感じる。この作品の中でも命を落としてしまう女の子がいるように、好奇心とのバランスが危うい存在なんだと思う。
一部では少女愛好家の好奇の目にさらされる作品となっているようだが、それは、この作品の中でバレエを見に来ている客のようなものだと思う。そしてそれが、こちらに罪悪感を感じさせるのだろうし、見てはいけないものを見てしまった感をだしているのだろう。
きれいな少女たちが楽しく踊っているだけの美しい世界は、存在することが既に罪なんじゃないかとさえ思える。見るなといっても、見たくなる。でも、見てはいけない気がする、そんな不思議な作品。
日本語タイトルのような素朴な作品ではないし、おしゃれ映画とかでもないのでご用心。
マリオン・コティヤールが演じる先生も、美しくてミステリアスで、なんか怖い。
誘惑する眼差し メラニー・ロランの虜になる 「PARIS」 感想
いくつもの人生がそこにある、パリの群像
セドリック・クラピッシュが描く、パリを中心にした群像劇。いくつもの人生のリアルな痛みが交差する。
死に至る病を患う弟(ロマン・デュリス)を気遣う姉(ジュリエット・ビノシュ)を軸に展開するストーリーは、観光地としてのパリでなく、生活の場としての普段のパリを描いている。
彼の周りの人々は生きていて、人生を変えることができる。そのメッセージを持って、姉の人生に再び愛の息吹を吹き込もうとする。恋することで生き生きしていくジュリエット・ビノシュの姿は初々しさすら感じる。
人生を見つめなおす弟の目に映るパリは生きているように、いくつもの恋を生んで人々を活かしているようだ。死というファインダーを持って深くなる視点が、クラピッシュの他の軽妙な作品とは違った味を出している。
要の存在、メラニー・ロランの罪な美しさ
一方で白髪交じりの大学教授(ファブリス・ルキー二)が初めて心から恋をするストーリーが並行している。
前述の病気のストーリーと結びつけているのは周囲を誘惑する魅力を持つ女学生。カフェに座っているだけ、部屋の窓辺に立つだけで心をつかんで離さない。
メラニー・ロランの魅力は完璧な目鼻立ちと知的なパリジェンヌの雰囲気。そして小悪魔。こんな女子大生がいたらどんな教授も恋心を抱いてしまいそうだ。
物語に胸の痛みを与える重要な存在で一度見たら忘れられない目力で、くぎづけにされる。
大物監督もほれ込む才色兼備の実力!
メラニー・ロランは女優としてこの後目覚ましい活躍をしている。タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』や、アンジェリーナ・ジョリー・ピットの『白い帽子の女』にも出演。
さらに、自分でも映画を監督!ドキュメンタリー作家のシリル・ディオンと共同でナチュラルな限られた資源など環境問題をめぐる『Demain』で2016年度セザール賞を撮っている!本当に才色兼備だった!