styloの映画日記

WEBライターによる映画の感想、コラムなど雑記ですが記していきます。

トリュフォー映画祭『終電車』のカーテンコール

終電車 Blu-ray

ドイツ占領下のフランス、パリのモンマルトル劇場で起こる、恋愛模様
支配人の女主人は、その夫ユダヤ人のルネを地下に匿いながら新しい戯曲の公演を控えている。相手役の新人俳優は美しく若いベルナール。地下の夫に聞かれながらも、2人は愛を囁くシーンを何度も何度も練習している。そして、公開日…新しい恋の章が始まる瞬間を、観客たちは目撃する。

ドイツ軍が街を闊歩し、ゲシュタポが、手先になったパリ市民たちがお互いを監視している緊迫したパリの中にあって、この劇場は、異空間だ。もちろん、演出家のジャンルーの立ち回りや涙ぐましい様々な努力によって、体制側に折れず、電力不足を言い訳に閉館することはない。
カトリーヌ演じるドヌーヴもユダヤ人を排除する様子をはっきり明言しているが、内実は夫ルネにつながるユダヤ性を隠すためのものでもある。つまり、そうではなく差別や戦争の理不尽と闘っている場所なのだ。レジスタンスの過激さではなく、ひたむきな芸術への愛、夫への愛によって、である。
批評家によって、存在が左右される大衆芸能が、そこに折り合いをつけながら、芸術を愛する集団として振る舞えるかが問われているとも言えるだろう。その批評が誠実でない、体制のためのものならなおさらである。
本当に美しいカーテンコールの内側の出来事、演じるものが、生身の人を愛する1人に戻る時。作り物の世界で、人が人らしく感情を保てるように闘うことを教えてくれる、ドヌーヴの弾ける笑顔なのだ。
そして、この劇中劇が、わたしたちの日常に、社会の制約の中から開放されるよう、ただそこにある自由を感じさせてくれる。周りを見渡せば舞台の上ではなく、閉まってくれるカーテンもない。演じるから、感じるという変化を、もっと自由にしても良いと、言っているようにも見られるだろう。ドヌーヴの「ウイ」がリフレインする。

レオス・カラックスの『アネット』にこめられたメッセージも『終電車』の現実への解放感のように思われる。もっと、自由に生きて良いんだよ、と。出演者たちがわたしたちを魅了した後に見せるあの自然な身振り、スタッフたちとの掛け合いなど。恐ろしく、素晴らしい、夢のようなフィクションから抜け出した後の、現実への愛着を訴えている。