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styloの映画日記

WEBライターによる映画の感想、コラムなど雑記ですが記していきます。

アルモドバル監督「ジュリエッタ」感想 ある女性の人生に見た希望の話

 

ジュリエッタ [Blu-ray]
 

2017年4月 飯田橋ギンレイホールにて

 

ジュリエッタ』 2016年 スペイン

監督 ペドロ・アルモドバル

主演 エマ・スアレス&アドリアーナ・ウガルデ

 

物語は過去に大きな後悔を残した女性ジュリエッタが、新しい人生を踏み出すことができず、忘れ物を取りに行くように自分と向き合う様子が回想を交えて展開する。

  

過去を捨てきれない或る女の話

大きな重しをかかえているような、覇気の感じられないジュリエッタの姿。現在のパートナーも彼女の抱える過去の存在に気づいていたけれど、追及することはなかった。そのまま二人で新しい人生を進めるという日にすべてが変わる。

ふとしたことで過去のパンドラの箱に手をかけてしまったジュリエッタは、そこからめをそらすことができなくなってしまう。

未来への旅立ちの日に、別れを告げられるパートナー。そして過去に向かって後退していくジュリエッタ。この別れが物語の始まりになっている。

住んでいた場所も、職業も違う若いころの自分を振り返る。その時に大切に思っていた人のことも、ジュリエッタはすべてを書き記しながら回想している。

若いころの回想で、ジュリエッタを演じる若さあふれるアドリアーナ・ウガルデ。ジュリエッタは年を重ねたエマ・スアレスが演じる姿も美しいけれどどこか影がある。その若いころはなんとはつらつとして、目が輝き、屈託のないことか。肩の張ったファッションや、メイクからも時代の経過が感じられて、時間を、時代を簡単に超えていく映画の世界に引き込まれる。

 

私のもとに帰ってくる

ジュリエッタが過去を捨てたのには理由があった。愛する夫を最後まで信じ切れず、不幸な事故で亡くしたことへの罪悪感。それゆえの娘との別離。

夫を亡くした時点で自分が悲しむばかりで、娘のケアができなかったことは、母子の関係に致命的な亀裂を生んでいた。そして、打ちひしがれ続ける自分から、離れていった、娘。彼女は、母より大人にならざるを得なかった。

それでも、娘が自分のもとへ戻ってくると強い期待を抱いていたジュリエッタのエゴと罪悪感の日々が苦々しく回想される。

娘のためにバースデーケーキを3年間用意し続け、それを一口も食べずに捨てる儀式の重々しさ。自責の念が、自分をじわじわと苦しめていく様子が痛々しくつづく。その傷を隠したまま日々を重ねてきたつらさを想像する。そして、新しい生活をしても軽くなることのない重しとなってジュリエッタの影はさらに深くなっていく。

 

母であり、人であり、娘であり、人である

母を、娘を一人の人格として認められるかが、この母子の間には欠けていた。それでも、娘は自分から離れた時点で、母より先に大人になっていたのだ。

心神喪失の時期に母が娘に甘える姿は、娘を満足させると同時に深く傷つけていたのだはないだろうか。頼るべき母の存在が見えない中、娘は相手が逃げ出したくなるほど友人にすがっていた。当の母親はそれにすら気づかないままもがいていた。

守っているようで守られている。誰かのために何かをする自己犠牲の精神は、自己満足の精神とかなり近いところにある。その相手が不在になってしまうと、どうやって生きればいいのかわからなくなってしまう人もいるだろう。ジュリエッタのように。

親は子供を保護する役割をいつか終える。

保護する関係から、大人として対等に向き合うための移行期間が必ず必要だ。その時期をうまく乗り越えられなかったケースが作品の二人に当てはまる。すがられるだけの存在でも、すがるだけの存在でもない新しい親子関係を構築する巣立ちの時期を、夫の死という最悪な出来事とともに迎えてしまった。運命のいたずらが、ふたりの人生の歯車を狂わせた。

 

誰もが希望を見出すラストへ

娘を見失ったジュリエッタのように。ぬけがらのまま後悔を抱いている彼女を支えたのは、運命的な一通の手紙だった。マドリードのアパートメントで待ち続けたジュリエッタが、自分の人生を取り戻すことができたのは、めぐりあわせとしか思えない。小さくて、やさしい奇跡。

 

人生の中で、きっと後悔を晴らすチャンスがめぐってくると自分にも思えるような優しい視線を感じる。立場も、住む場所も違うけれど、どこか自分にも引き寄せて考えられる。

「オールアバウトマイマザー」「ボルベール」など、人生を俯瞰するような作品が魅力的なペドロ・アルモドバル監督。取り立てて大きなドラマのあるわけでもない、一人の女性の人生に起こる幸せと不幸せ、絶望と希望を巧みに描き出している。

漁師の街、アンダルシアの田舎、都会的なマドリードと、カラフルなスペインのいろいろな地域性が見られるのもこの作品の素敵なところ。旅をするように、過去に落としてなくした物を、拾いに行くことができる、そんな希望を感じるあたたかい作品でおすすめ。

 

オール・アバウト・マイ・マザー [DVD]

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ボルベール<帰郷> [DVD]

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 ※カナダの女性作家アリス・マンローによる原作「Runaway」は読んでみたい。8つの短編からなり、そのうちの3つが「ジュリエッタ」で表現されている様子。日本語はまだない様子。

Runaway

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アルモドバル監督「ジュリエッタ」 恋と愛と、後悔の半生を描く

 

ジュリエッタ [Blu-ray]
 

ジュリエッタ

監督 ペドロ・アルモドバル

主演 エマ・スアレス&アドリアーナ・ウガルデ

 ジュリエッタという一人の女性の半生を追った物語。恋をして家族を作り、そして死や別れを経験する。喜びもあれば後悔もある。誰にでも起こりうる人生の葛藤を、ジュリエッタの回想で追う。運命をあきらめなかったジュリエッタの強い意志が感動の最後につながる・。

 

ジュリエッタの特別な点は、美貌とアンバランスな繊細な心。強い自責の念を感じるまじめな性格。若いころのファッションは過激だけれど、古典の教師ということもあり、進は保守的な部分がある。

物語には、ナンパされかかった男が自殺したり、恋をした相手の妻が亡くなったり、初めから死のにおいがまとわりついている。ついには、夫も漁に出て帰らぬ人になってしまう。

 

 

最愛の娘との関係においても、夫の死後どんどんおかしくなっていく。娘に感情をぶつけるべき場面で、自分の殻にとじこもってしまう。娘が自分の感情のやり場を失い、親友に依存していくことにも気づかないまま。

 

また、自分の両親への、申し訳なさも抱えている。母親の面倒を見られなかったことへの後悔。新しい伴侶を得た父へのいら立ち。血のつながった人間関係に、様々な後悔を抱えていく。

 

積み重なった後悔が象徴されるのが、娘のためのバースデーケーキを捨てるシーンだ。娘は父の死を語らない母親から、逃れるようにして失踪していた。

 

新しい人生を歩もうとしていたジュリエッタだったけれど、娘を忘れられるはずがなかった。そして、葛藤しながらも、二人がどん底の時期を過ごしたマドリードのマンションに戻る。

 

その選択が奇跡的だった。運命はこのマンションにあったのだろう。ケーキを捨てたつらい思い出に立ち返ることで、先につながる希望が生まれる。

 

つらい思い出がある場所に戻るのは勇気がいること。それでもそこで待つことが最良の選択だった。人生が流れる中、つらいこともあっればいいこともある。そういうめぐりあわせが描かれたアルモドバル監督の愛にあふれた作品。

 

若い時代のジュリエッタのあふれる魅力がアドリアーナ・ウガルデによって演じられている。作品の中では、次第に不穏な空気がながれるけれど、ジュリエッタの生命力あふれる笑顔を見ているだけで幸せになる。人生を俯瞰してみた時に、ここまで、おおらかにやさしい世界観が作れるのは親子の物語を描き続けた67歳のアルモドバル監督ならでは。

 

『リアリティのダンス』感想 暗い少年時代も未来へつながっている

リアリティのダンス(字幕版)

少年時代の思い出は夢の中に

ホドロフスキーの『リアリティのダンス』は、彼自身の過ごした少年時代をベースに作られた自伝的作品と言われる。

脚色は強く、登場する人物は夢の中の存在のように誇張されているように感じる。

 

例えば、母親はずっとオペラ調で歌うように、叫ぶように話しかけてくる。胸元も強調され、母性的な象徴なのだろうか。一方、少年と関わりのない人たちはみな仮面をかぶっていて存在感が全くなく、不気味だ。

 

子どもの頃の思い出を浮かべる時、覚えている部分は強調し、忘れている部分はグレーがかったような記憶のあり方が表現されているのだろうか。

 

また、作中では、主人公の少年が見聞きし、体験することが次々と私たちに襲い掛かってくる。見世物小屋で意地悪なピエロたちが出てきたり、死んだイワシの群れが足元に広がったり、消防隊員が殉職してその葬列に加わったり、嫌なイメージ、恐ろしい出来事が多い。

見ている方は悪夢のようだけれど、他人事とはいえ、自分の中の幼少期の嫌な思い出を想起させる繋がりで、つい見続けてしまう。

 

子ども時代の良い思い出ばかり見続ける「永遠の少年」もいる中で、監督は、負のイメージばかりを集めている。少年時代の暗い体験が、表現者としての葛藤や、社会への問題提起などにもつながるのだろうか。

 

時代に流された父親の影響力

一つの物語として見る時に、少年の成長を助長させるのは父親の存在だ。偏ったマッチョ思想で、共産党の同志の父親が、社会運動と時代の変遷の中で翻弄される。

 

初めは、少年にも男らしさは弱さを見せないことだと伝えていた。美しい祖父譲りのブロンドを床屋で刈り取って、ユダヤ人の黒髪にさせるシーンも象徴的だ。母親の世界から少年を奪い、男らしさを強要する。

 

そして、自分の思想が変化する中で家族から離れ、いくつもの困難に遭遇して戻ってきた時には、別人のようになっている。子どもにとって親の思想は教育に色濃く影響するだろう。その父親の影響で少年も翻弄される。

 

まるで、ダンスを踊る操り人形のように。父親が躍れば子どもも踊らされるのだ。

 

父親に対して、オペラ歌手のような母親だけが常にぶれないのが対照的だ。あれほど強い男性を目指していた父が崩れていく中で、女性らしい母の方が常にゆるがない。それが、思想や社会問題といったリアリティとダンスをしている父親を引き立てているのも面白かった。

 

未来につながる今

作品の中で、老人が少年を救おうとするシーンが幾つかある。その老人がホドロフスキー自身だ。

ユダヤ人だからと、クラスメイトにいじめられ、身を投げようとした時も、ダンスを踊るように、生きることを示唆する。その中で、未来を見つめることを教えてくれる。

過去の自分は未来の自分へつながる、少年にとっての理不尽な今も、先につながり自分を作っていく大切なプロセスなんだというメッセージが伝わる。

 

少年時代は美しい思い出ばかりではない。それでも、諦めないで、柔軟に生き続けることが必要なんだという美しいシーンだった。過去の自分に語りかけたい時がある。それを今生きている少年たちにも伝えたいと感じさせる内容。毒気が強いシーンも多いが、最後まで見続けてほしい。

「勝手にしやがれ」ゴダール 感想

勝手にしやがれ [DVD]

ジャン=リュック・ゴダール勝手にしやがれ』1959年 フランス

勝手にしやがれという言葉のイメージ

ヌーベルバーグというフランスの映画界の革命の象徴的な作品として殿堂入りしている『勝手にしやがれ』は、映画評論家 秦早穂子が買い付け、タイトルもつけている。

これが、私にとってはフランス映画やヌーベルバーグのイメージを作った言葉になっている。

この作品についても、原題は「À bout de souffle」息を切らしてという意味で、英語なんてBreathlessとなる。走っていて最後は撃たれるから、息が切れている感じもわかるけれど、勝手な女や勝手な男が最低なことをしていて、それがなんだ、勝手にしやがれ、という気分にもなる。

 

勝手というのは良い言葉だ。勝手にすることが難しいから、勝手にしている人は注目を集めるし敵も作る。理解されない。

でも、勝手なことはそんなに嫌いじゃない。

 

決まり切った筋書き通りでも、決まりきった構図でもなく、勝手に作られた感じが自由で、私はヌーベルバーグらしいと感じる。

だから、『勝手にしやがれ』のラストシーンが大好きだ。ジーン・セバーグが唇をなぞり、ハードボイルドに決める。「最低」とつぶやく。

本来なら少しは気のあった男が死にそうになっていたら、駆け寄って抱きしめて涙したり「死なないで」というかもしれない。そうじゃなくて、なんだかいいなと思う。

 

ゴダール作品を見る時に

ゴダールは色々な引用が多くて、知識が追いつかないからあまり考えないようにして画を眺めたり、ストーリーも断片しか理解できなかったりする。考えれば考えるほど疲れて嫌いになりそうだ。

 

でも、勝手にしやがれと言うことばがどこかに沸いてきて、また、登場人物が勝手にしているんだろうなと、不条理劇を見ているような目線になる。

作った本人の求める見方ではなかったとしても、作品の楽しみ方は自由だ。勝手にさせてもらおう。と思うような、そんな取り違えをして、今でもたまに、ゴダールの映画を見ている。

勝手にしやがれ』という言い訳を持って。カットがうつったり、跳んだりするこの時期の映像のテンポ、音楽のリズムや入り方が好きだ。だから勝手に好きでいる。

 

※新字幕版上映終了しているけれどまだどこかでやるかも

katteni.onlyhearts.co.jp

フランソワ・オゾン監督 「17歳」の危うすぎる輝き

17歳(R-18バージョン)(字幕版)

『17歳』フランソワ・オゾン監督 2013年 フランス 

17歳のコントロール不能な魅力

17歳の少女イザベル、自分ではすっかり大人だと思っているけれど、心はアンバランスだ。イザベルがバカンス中に駆け足で処女を失なった時、自分の中の少女だった部分が現れ、その様子をじっと見つめていた。

 

そして日常に戻って、イザベルは放課後、客を取り始める。好きでもない男に抱かれ何も感じない自分を、冷静な自分が常に見ている。何不自由ない暮らしをしていて、お金が欲しいのではなく、存在を確かめたいという危うい理由で始めた危険な遊びだ。

 

自意識の大きさが破滅の道を選んでしまうヒリヒリする展開。

 

正体の分からない自分の中の誰かに誘われ、男たちを誘う。こんなこともできる、みて、スゴイでしょと言わんばかりで、悲しくなってくる。

 

 悪いコトするのは誰かのせい?

イザベルはフランスではよくあるステップファミリーの個を重んじる家庭に育っている。母親との関係、義理の父親との関係、離婚して別の家族を持った父親との関係…葛藤や悩みを、少なからず持っている境遇だろう。

 

複雑な家庭環境だけがイザベルの非行の原因ではない。特に、母親の「女」を意識し過ぎた行動には首をかしげる。奔放だった自分の経験を重ねて、娘にも「女の事情」を共通の秘密として特別扱いすることが多い。

 

その一方で、売春をすることへの潔癖さをモラルとして強要する。自分が不倫していることも棚に上げて、ヒステリックな被害者面は娘にどう映るかも考えない感じの悪さだ。

 

母親と娘は血はつながっていても別の人間だ。それなのに、母親自身の中にも少女の自分がいて、娘に重ねている。だから、娘の行いに、自分が汚されたような気がしているのかもしれない。

 

イザベルは女を強調する母親に対して、自分の中の女を使って対抗し、認められようとしているようにも見える。そこですれ違う想い。結局、娘を女として見ようとしても、見られない母親との不毛な争いの結果、お互いに傷ついている二人。

 

イザベルの中で向き合いきれない女の自分を、母親には向き合って認めて欲しいという叫びが聞こえる気がした。

 

 17歳を導く「大人」が必要

ぶれない大人が「これで大丈夫。」と言ってくれることが、どれだけ、不安定な17歳の少女の支えになるか。

作品のラストに、夫が最後の愛人と最後の時を過ごしたホテルに会いに来る夫人を、シャーロット・ランプリングが迫力たっぷりに演じている。そして彼女こそが、イザベルを苦しみの中から救い出してくれる大人の役割を果たしてくれる。

 

相手を攻撃するのではなく、むしろ嗜めるように、慈しむように、最後の愛人を受け入れる。そして、イザベルは自分の中の「17歳」という持て余すほどの若さに折り合いをつけて、ホテルの部屋から去っていく。

 

夫人が感情的にならなかったのは、「夫と出会ったのは17歳の時だった」その言葉に全てが集約されている。夫が最後に愛したのは出会った頃の自分だったという感覚を持ったのかもしれない。皆が自分の17歳を心の中に忍ばせている。

 

美しいから誘われる。美しいのが悪い。

作品の中で、義理の父親が言う「あの子は美しいから」というセリフ。イザベルが美しいから男が誘われてしまう。という身勝手な言い分。

外から見られる自分と、自分の中の自分がちぐはぐで、暴走してしまう不器用さを止めてあげてほしいのに、自分はその役割ではないと線を引いてしまうこの義父は、どこかで責任を放棄している。

 

自傷行為のようにくりかえれる客との関係は、モラルを越えて、女の性について考えさせる。もっとも古くからある商いが売春だ。売り物は買い手があるから用意される。

 

美しい17歳だからいけないのではなく、それを買う文化がいけないのではないか。

 

それが分かっていても、義父のように見てみぬふりをする人の多さ。性は個人的なもので、身体の一部であり、人生の一部。もともと売り物として授かる身体ではないのに、そうなってしまう悲しい境遇はいくつもあるのだろう。

 

そんな中でも、自分の価値を承認されたいがために客を取るイザベルを通して、深く考えさせられる。

 

シャーロット・ランプリング演じる夫人の「若い頃は男に金を払わせたかった…でも勇気がなかった。」という言葉には違和感を感じる。けれど、その時しかない価値の高さを表現したのだろうか。

 

フランソワ・オゾン監督の描く女と女

スイミング・プール』でも、同様の構図で、若い女と熟年の女のミステリアスで苦々しいやりとりがあった。 取り戻せない過去を見ているような、シャーロット・ランプリングがどちらも印象に残る。

 

残酷な時間の隔たりを表現するために、女性の肉体の若さを扱う映像はオゾン監督らしいなと感じた。そして、女同士の軋轢を母親と娘という構図を加えて描いている『17歳』は、道徳的に破たんしているけれど、目の離せない作品だと思う。

 

母親役のジェラルディン・トンプソンの無神経な母親の嫌な感じは好演だった。イザベル役のマリーヌ・バクトは言うまでもない美しい娘役だったので、さらに悲しくなってしまう。人生の輝かしい一年に、なぜそんなことをするのか、理解しがたいところに、この作品の異常な魅力がある。

※『スイミング・プール

シャーロット・ランプリング×リュディビーヌ・サニエ

スイミング・プール [DVD]

 

※少女と大人の境目を揺らぐ「17歳」について語るマリーヌ・ヴァクト(2014年)

www.cinemacafe.net

フランソワ・オゾン監督、マリーヌ・ヴァクト主演 新作『L'amant double』がフランスで撮影中!(2016年12月から)

www.allocine.fr

マッツ・ミケルセン出演『アフター・ウェディング』 家族の真実が明かされる

アフター・ウェディング スペシャル・エディション [DVD]

 

スザンネ・ビア監督 マッツ・ミケルセン 2006年 デンマークスウェーデン

幸せを破る二つの真実

家族に見守られた結婚式、幸せの絶頂にいたアナ。その結婚式には、いわくつきのゲスト、ヤコブ(マッツ・ミケルセン)がいた。

 

ヤコブは慈善事業の資金調達のため、アナの父親で実業家のヨルゲンにコペンハーゲンに呼び戻されていた。しぶしぶ出向いたアナの結婚式で、かつての恋人と再会する。それが、アナの母親だった…。

偶然の重なりからの展開ではあるけれど、家族の絆を深める結婚式で、花嫁の母親は過去からの来訪者に戦慄する。

 

そして、物語が進むほどに、この再会にはもう一つの真実が隠されていることに気づかされる。

 

父親」の葛藤(以下ネタバレ)

自分が愛した女性が子どもを産んだことを知らずに、インドで孤児と心を通わせながら人生を歩み続けてきた孤独な男と、愛する女性と彼女が別の人を愛して生まれた子供を自分の子として慈しむ寛容な男。

インドで孤児院を作り奔走するヤコブと、コペンハーゲンに居を構えて成功しているヨルゲンの、全く違う人生が、くしくも愛娘アナの結婚式をきっかけに交差する。

 

一方、それまでの安定していた生活が変わってしまったアナとヘレナ。本当の父親と会うことを心の底では強く求めていたアナの気持ちが爆発する。ヘレナは、自分の愛した二人の男が同時に存在し混乱し、娘との衝突に戸惑う。

 

ヨルゲンにも、父親として、家族にとって自分の変わりは誰もいないと思いたい一方、いざという時に悔いを残したくないという、葛藤が感じられる。平静を装いながらも辛いヨルゲンの気持ちが、随所に見られて切なくなる。

 

人生の中で真実が常に最善とは限らない。それでも、家族を思う気持ちからヨルゲンはヤコブを呼び戻したのだろうか。その不可解な行動も次第に解き明かされていく。

 

スザンネ・ビアの描く家族の役割

スザンネ・ビアの作品は、家族のつながりが丁寧に描かれている。彼女の作品は、それぞれの人物が個人の気持ちを越えて、父親、母親、といった役割を演じているように見える。

「アフター・ウェディング」でも、そうすべきことを行うヨルゲンは、アナの父親としての役割を果たそうとしている。それを受けて、ヘレナもヤコブも過去に向き合う勇気をもらう。静かな調和を感じるラストは、胸にじんわりとヨルゲンの想いを残している。

 

 堅い表情の精悍なヤコブ(マッツ・ミケルセン)に対して、ふくよかで温和な印象のヨルゲンは対照的だ。二人の全く違う魅力のはざまで、母になる前の自分がちらっと顔を出す女心が、シセ・バベット・クヌッセンによって上手く演じられている。

 

派手さはないけれど、混乱と気まずさを越えて平穏に向かう家族を、淡々としたタッチで描く大人の作品。

 

※スザンネ・ビアの家族を扱った作品はじわじわ考えさせられる。

2010年『未来を生きる君たちへ』

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暴力をテーマに、「正しさ」を教えようとする父親の姿と、世の中の矛盾に戸惑う子どもたちが描かれています。

 

2004年『ある愛の風景

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戦争が奪ったのは、家族の時間だけではなかった。家族のつながりまで壊れていくやりきれない内容。

 

 2009年に『マイ・ブラザー』でハリウッドリメイク

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「肉体と火山」 クレマンス・デメム作 マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバル2017より

『肉体と火山』La chair et les volcans

クレマンス・デメム監督 2015年 フランス (短編21分)

https://www.facebook.com/lachairetlesvolcans/

マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルにて視聴

 

あらすじ

あるフランス・オーベルニュ地方の小さな町、ラ・ファイエットが舞台。心臓に病気を抱えた少女ロラが、制約の多い生活を送っている。

十代の彼女は、遊びたい盛りなはずだが、いつも一人。心臓の疾患や父子家庭という環境もあり大人しく、どこか諦念のようなものをおびている。周りと馴染めずにいるロラが、ある体育講師との出会いをきっかけに、自分の想いを現わしていく。

ラストシーンでは、自由だった子供の頃のように自分を解放した少女の輝きがみられる。

 

感想

ロラが、父親に向かって「パパ、かっこいい(美しい:beau)」というシーンが好きだ。最後の言葉になるかもしれない時に、そういう洒落たことをサラッと言える。秘めた大胆さが魅力的なヒロイン。

 

輝きたいのに輝けない10代の少女の葛藤がコンパクトで的確に描かれていて、胸が苦しくなる。肉体はただの物質で、精神は火山のように燃え上がる時がある、そんなメッセージが伝わってくる気持ちのいい短編だ。

前半からはりつくように彼女の背中を追っているカメラの目線が、見守っているようでもあり、後押しするようにも見える。ロラの活き活きとした姿が潔くて美しくて切ない一作で、おすすめ。

 

※青山シアターで第7回マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルが開催中。

期間2017年1月13日から2月13日。登録すれば短編は無料でネット視聴可能。

本作は第一弾1月26日まで。

http://aoyama-theater.jp/feature/myfff2017

 

『恋多き女』 ゴージャスな美貌と強い意志を持つバーグマン

恋多き女 Blu-ray

 

恋多き女』Elena et les hommes ジャン・ルノワール監督 1956年 イングリット・バーグマン ジャン・マレー メル・ファーラー 

 

女神は使命の恋を重ねる

ジャン・ルノワール監督の後期の作品『恋多き女』は、パリの社交界を舞台に男性を次々に虜にしていく未亡人の恋愛喜劇。

未亡人エレナ演じる主演のイングリット・バーグマンの絶対的な存在感に支配されている。イブニングドレスや毛皮が似合うゴージャスな体型とブロンドの豊かな髪が画面にあふれ、豪華絢爛。ルノワールの作るカラフルな画面に映える。

 ルノワールによるところの「現実離れした」演技で周囲を巻き込むバーグマンは超人的だ。※1.練られたストーリーも魅力的だけれど、バーグマンの存在感だけで何の話か忘れてしまう。あー、また恋に落ちちゃったな(男性が)という具合。

物語の中で、エレナはあげまん気質で、恋人になった男性はみな成功する。それをわかっていて、男性との恋は、相手に与えるための儀式になり、あたかも女神さまのような境地に立っている。彫刻のような顔だちの ジャン・マレー演じる将軍の登場に目を奪われ、あっという間に過ぎていく時間。

最後は、エレナが恋の女神から、一人の女に戻る決断が描かれる。最後の選択は恋多き女が自分の幸せをつかむ、ハッピーエンドに向かっていく。

 

予定調和ではなく、ドタバタしている中でつかんだ幸せという、リアリティが練りこまれている。

※1『ジャンルノワール自伝』西本晃二訳 みすず書房 p340より

恋多き女』は不幸な悪女ではない

上品な顔立ちと、まっすぐな瞳から聖女といわれた女優としてのキャリアを一変させるスキャンダラスな事件を起こす。イングリット・バーグマンの実人生では、幾つもの恋が報じられ、恋多き女という、悪女のレッテルを張られてしまう。

しかし、映画『イングリット・バーグマン 愛に生きた女優』※2では、恋と愛、家族に支えられ、ブレない軸を中心にしていた様子がみられる。

 

女優としてのキャリアの絶頂で、イタリア映画の巨匠ロベルト・ロッセリーニと不倫関係に陥り、夫と子供を捨てた悪い母親としてバッシングされる。

それでも、彼との子どもを3人設けた彼女は満ち足りた表情で映像に残されている。世間に卑屈になるのではなく、強いまなざしで自分の道を歩いていく姿が印象深い。

愛のあり方、生き様に対して、外野が口を挿むことのできない信仰に似た信念が見える。軽々しい不倫論ではなく、一人の生き方として、語られる伝説の女優の逸話になった。何よりも笑顔のフィルムが、幸せの作り方を教えてくれている。

 

1956年に製作された『恋多き女』は、ハリウッド復帰の年にあたる。ジャン・ルノワールの温かいまなざしが、恋に翻弄されながらも、自分を貫いたイングリット・バーグマンを包み込んでいる。愛に生きる姿が力強く美しい。

 

※2聖女から悪女に堕ちた波乱の人生を負ったドキュメンタリー。作品の制作を子どもたちが熱望したというところに、女優としての母を誇りに思っていたことがうかがえる。

ingridbergman.jp

女王蜂と7人のお世話蜂 アザリロヴィック監督『ネクター』 

ネクター

ルシール・アザリロヴィック監督 2014年 フランス

オルガ・リャザーノワ

2016年12月14日アップリンクにて

 

18分の短編に、女社会のヒヤッとする嫌なものが込められている。短い間にも見えない前後のストーリーが完璧に含まれていて、秀逸だ。

 

蜂の羽音が始まりからブンブンブーンと耳につく。

 

女王が君臨するとある世界が舞台。その女王とお世話蜂たち、他男性2人ほどが登場する静かな作品。まるで蜂の巣のような集合住宅は養蜂箱と重ねられ、女王の世話をする蜂たちはそこで暮らしている。

 

女王の体からしみ出す濃厚なはちみつ、「ネクター」は愛の媚薬であり、この世界になくてはならない役割を果たす。その女王の御代が変わる時は…。

 

長いつけまつげがマーベラスに美しい女王に陰りが出るときの、お世話係の目の鋭さは、相手を責めるようであり、失望したようでもあり、どこか薄ら笑いをしているところを想像する。

それまで従順で可愛らしかったお世話係たちが、意地悪に見えてくるのは女社会のしきたりなのか。かいがいしく世話する姿にとげが見えてくるから不思議だ。

 

最後の方では官能を誘うお世話蜂たちの愛撫が、ネクターが必要、女王の役割が必要という、必要性を訴えてくる作業になっている。需要と供給がマッチする平和が乱れるとき、次の女王を狙うしたたかな女の計略が動くのではというハラハラが感じられる作品。

 

蜂を人におきかえて、ネクターはやっぱり必要だと思った。人類が繁栄する生物的な意味でも、恋する気持ちを発生させる媚薬がどこかで生み出され、供給されているのかもしれない。

映画『ネクター』公式サイト

 

stylo1cinema.hatenablog.com

ナショジオ「地球が壊れる前に」と「レヴェナント 蘇りし者」

「地球が壊れる前に」

フィッシャー・スティーブンス監督 2016年 アメリカ

 

地球が壊れる前に|番組紹介|ナショナル ジオグラフィック (TV)

マーティン・スコセッシ製作総指揮の環境ドキュメンタリー

一昔前、プリウスに乗るセレブということで、環境への配慮を印象付けたレオナルド・ディカプリオ国連でのスピーチや、自然環境への発信力で俳優だけでない顔を見せている。

 

作品では、ディカプリオがグリーンランドやインドなど環境をめぐるテーマで世界を巡る2年間の旅を追う。「地球が壊れる前に」は、社会派のマーティン・スコセッシ監督の製作総指揮によるドキュメンタリーだ。

 

スコセッシ×ディカプリオは数々の作品でタッグを組んでいる。「ギャングオブニューヨーク」以来、何度も共に仕事をする理由として、ディカプリオの情熱を評価しているという。信頼関係のある二人だからこそ、淡々としたドキュメンタリーというより、情熱がこもった表情をいくつも魅力的に捉えている。

 

「レヴェナント」につながる自然との対話シーン

ディカプリオが初のアカデミー賞を取ったイリニヤトゥ監督「レヴェナント 蘇りし者」。印象的だったのは、家族を奪われた男の悲しみもさることながら、自然に挑み、自然と闘い、自然に包まれている数々のロケシーン。厳しい自然の中で、人間が小さく頼りない存在だということを体当たりで演じている点だった。

 

「地球が壊れる前に」では、イリニヤトゥに対して、売人たちが動物の頭蓋骨までも売っていたシーンを入れてほしいとオーダーしている場面もある。自然と人のテーマをめぐって、二つの作品が共鳴しながら作られている時期があったことがわかる。

 

実際に、レヴェナントのロケ地はカナダの予定地で雪が一気に解けたため、アルゼンチンに変更されたエピソードもあり、アカデミー賞受賞の際も、地球温暖化の問題で結んでいる。地球環境への危機感を強くすることで、自然への敬意や畏怖の深みが増したことは想像できるだろう。

 

「地球が壊れる前に」と「レヴェナント」

役者としてでも個人としてでもハリウッドセレブの彼が活動すれば通常の範疇では収まらない。影響力のある自分を知って、馬鹿にされても信念を持って環境問題を発信し続ける姿勢は、やはり社会と戦うヒーロー。

  

「地球が壊れる前に」を見てから「レヴェナント」を思い返すと、復讐劇という人間ドラマだけでなくもっと大きなテーマを違った視点から感じることもできるだろう。ドキュメンタリーとフィクション、どちらも「自然」と「人間」の対比を演じながら、同時に人間のおごりを暴いている。

  

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