トリュフォー映画祭『終電車』のカーテンコール
『エヴァ』悪女の魅力に揺さぶられる
- 出版社/メーカー: Happinet
- 発売日: 2019/01/09
ハネケ『ハッピーエンド』感想 静かな海に向かっていく華麗なる一家
ミヒャエル・ハネケ監督・脚本の描きだす地方都市の名士一家のどろどろとした内実を3世代の交流を通して切り取った作品。
登場するのは、主(ジャン・ルイ・トラティニャン)、娘(イザベル・ユペール)、孫1ピエール(フランツ・ロゴフスキ)、息子(マチュー・カソビッツ)、前妻、孫2ジャンヌ、後妻、孫3ポール。
ストーリーは、主人の息子の初めの妻との間に生まれた娘、ジャンヌが起こしたある事件をきっかけに動き出す。
邸宅には、モロッコ人の使用人家族と番犬もいる。まさにフランスの地方の裕福な一家の優雅な日常が描かれている。
しかし、その食卓は冷たくみな表情も硬い。ハッピーはどこにあるのか、見ている私たちの居心地を悪くさせる。登場人物が揃ったことで、この一族の業ともいうべき、愛と死との激しい向き合い方が徐々に明らかになっていく…。
(以下ネタバレ)
ハッピーエンドという題名から想像される家族のほのぼのとした幸せや、心温まるエピソードは皆無だ。まず、ジャンヌは、煙たい存在だった実の母を薬殺。主は愛する妻を介護の末絞殺。その秘密を抱えて淡々と日々を過ごしている。
特にまだ13歳のジャンヌの感情のないふるまいにはぞっとする。日常的に食べたり、出かけたり、勉強したり、今どきの子らしくユーチューブをみたりしているけれど、心がどこにあるのかわからない。
久しぶりに同居することになった父親の女癖を見抜いたり、チャットをのぞいたり、ぞっとするほど冷静だ。
ジャンヌがスマホで撮影した映像が作中には何度も出てくるが、これは彼女の見ている世界観を表している。すべてがフレーム越しの他人事なのだ。自分が母に薬を盛っていても、それは遠い世界のストーリーのよう。感情が動かないから、楽勝なんだ。
子どもらしく振舞うことにもたけていて、義理の弟のポールをあやしたり、転校時には不安定に涙を見せたりする。ジャンヌは、同じ秘密をもつ祖父である主とは通じ合うことができる。彼は、会った時から死の影を感じ、「この子がいると妙な感じがする」と言っていた。
感情のなさと、冷静な判断力、行動力がこの家族には強く遺伝している。
その象徴的な存在がもう一人、イザベル・ユペールの演じるアンヌ。父親の家業を継ぎ、やり手の女経営者として堂々とふるまっている。仕事で起こった事故の処理や、父親の徘徊、使用人の子の怪我など、常に冷静に次善策をもって対処している。
ハネケの作品では、常に冷たい美人として描かれる彼女がここにも見られる。そして優秀なビジネスパートナーでもあるイギリス人の婚約者(トビー・ジョーンズ)を選んでいるところも実用的な印象を受ける。
そしてこの作品で最も異質な存在が、アンヌの息子、ピエール。
一家にとって出来損ないの彼は、仕事出もダメ、恋愛もダメ、ついに家を出ていく。圧倒的なアンヌの支配から逃れるために、もがいている様子は痛々しい。
印象的なシーンは、カラオケでシーアの「シャンデリア」躍りながら熱唱するところ。滑稽に見えるけれどとても人間らしいし、彼の苦しい状況が伝わってくる。歌詞のように、「感情を押し殺して生きるパーティーガール」がまさにピエールの状態なのだ。
ラストシーンのアンヌの婚約披露式でのピエールの暴挙も痛々しいけれど、ちょっと応援したくなる。そして、最後は、結局アンヌの冷淡な力技で押し切られて丸く収められるところも哀れだ。
*
カレー市というと、フランスとイギリスの差向う町だ。最近は、イギリスを目指す移民たちが集まって「ジャングル」という難民キャンプを作ったことで、注目されていた。ヨーロッパの移民問題の象徴的な場所になっていた。このジャングルは撤去されている。
この作品では、主が車いすで徘徊するところと、最後のパーティーで黒人の若者たちが描かれている。ピエールは必死で彼らを見てそうした問題を提起しようとしているが、周囲の冷ややかな目線のもと空回りしている。当の若者たちも、困惑している様子がさらにピエールを浮き立たせて見せていた。
この愛がない一家のハッピーエンドが、死でしかないことはジョルジュの願望を通して見えてくる。ただ、ジャンヌの目でとらえた、すべてが他人事のように過ぎる人生は、この作品の中だけの話ではない。
日本での少女の薬殺未遂事件をニュースで読んで、この映画のきっかけになっていることは事実です。 …この少女がなぜSNSにポストしていたのかと思うと、匿名で投稿していても、どこかで発見されるかもという思いがあると思うんです。私が思うには、注目を集めたいという気持ちが一つあって、もう一つは罰を受けたい、という欲求、そいうものがモチーフにあると思う…
ミヒャエル・ハネケ、「ハッピーエンド」は日本の事件からインスピレーション受けたと明かす : 映画ニュース - 映画.com
ハネケ監督が実際にこう話しているように、どこまでも他人事の人生は人の心をゆがめてしまう。一生懸命生きようとして馬鹿なふるまいをしてしまうピエールに心を寄せてしまうのは、そういう社会へのアレルギー反応なのかもしれない。
※『ルージュの手紙』 フランス映画祭2017 オープニング舞台挨拶 &「Sage femme」上映
2017年フランス映画祭オープニング 6月22日
有楽町TOHOシネマ日劇
・オープニング舞台挨拶の様子
満員の観客を前に、これまでの登場作品のまとめ映像がながれ、登場したカトリーヌ・ドヌーヴ。遠目で見ても顔立ちがはっきりしているのがわかった。細い足にブロンド、思い出すのはさっきまでスクリーンに映っていた若いころの映像ばかり。歳を重ねているのに可憐な立ち姿だと感じてしまう。
しかし、そこに確かにいるのは、今のカトリーヌ・ドヌーヴ。大女優であり、同じ時代を生きている人生の先輩。会場は拍手に包まれた。
その後、客席の前方から登場したのはルー・ド・ラージュ、イザベル・ユペールといった豪華すぎる女優陣。各世代の筆頭が登場し、会場も盛り上がる。もちろん、ポール・バーホーヴェン監督、トラン・アン・ユン監督も登場。
豪華すぎるひと時。
団長のマドモワゼル・カトリーヌ・ドヌーヴの挨拶の後、北野武監督が登場。めちゃくちゃな挨拶のあと、映画への愛を語る。フランス映画は人と話をする視点をたくさん持てることを指摘。
そして、皆退場し上映へと移ることになる。
この時点で、感動しすぎて涙。同じ空間で過ごせるなんて夢のようなひと時だった。
・SageFemme上映
出演
カトリーヌ・フロ
あらすじ
助産師(SageFemme)としてまじめに働くクレールと、かつて父親の恋人だった賭け事もお酒も大好きなベアトリスの再会から始まるストーリー。二人の正反対の女性が人生の後半になって再びお互いに影響しあう。
クレールにとっては、過去のいやな存在だったベアトリスが重病と知り、放ってはおけない。二人の共通の思い出として、クレールの父親の存在もちらつく。
クレールの働く病院が閉鎖して、二人はより長い時間を過ごすことになり距離が縮まっていく。
感想
母、娘、孫、ひ孫という命のつながりを描いた作品。血のつながりはなくても、父親を通じて結びつきがあるなら通じ合うことがある。和解することはむずあkしいと思う相手でさえ真剣に向き合うクレールのまじめさに、ベアトリスは救われるし、ベアトリスの常識にとらわれず気ままに生きるありかたにクレールも救われている。
最後は、人を愛する気持ちを思い出したクレールの姿に安心して去ることができたのだろう。強烈で放っておけないベアトリスを、カトリーヌドヌーヴが貫録たっぷりに演じている。
カトリーヌ・ドヌーヴは、国内外からも女性が自由に生きることの象徴としてとらえられる。表現することもそうだし、常に自分から行動を起こしている。こんなに大女優となった今でも、作品への出演交渉を自分でしたという話もある。
彼女が演じるからこそベアトリスは付き合いにくい偏屈でわがままな人ではなく、自由な雰囲気をまとったチャーミングな女性に移るのだ。こうあるべきという姿にばかりとらわれず、人生を謳歌する姿とその責任を見せてくれている。
見終わった後に、人生の長さと、自分がどう生きていたいかということを考えさせる作品だ。あいさつでカトリーヌ・ドヌーヴが言ったように「愛と死」をテーマにしている深みが感じられる。
※『ルージュの手紙』というタイトルにて上映
アルモドバル監督「ジュリエッタ」感想 ある女性の人生に見た希望の話
『ジュリエッタ』 2016年 スペイン
監督 ペドロ・アルモドバル
主演 エマ・スアレス&アドリアーナ・ウガルデ
物語は過去に大きな後悔を残した女性ジュリエッタが、新しい人生を踏み出すことができず、忘れ物を取りに行くように自分と向き合う様子が回想を交えて展開する。
過去を捨てきれない或る女の話
大きな重しをかかえているような、覇気の感じられないジュリエッタの姿。現在のパートナーも彼女の抱える過去の存在に気づいていたけれど、追及することはなかった。そのまま二人で新しい人生を進めるという日にすべてが変わる。
ふとしたことで過去のパンドラの箱に手をかけてしまったジュリエッタは、そこからめをそらすことができなくなってしまう。
未来への旅立ちの日に、別れを告げられるパートナー。そして過去に向かって後退していくジュリエッタ。この別れが物語の始まりになっている。
住んでいた場所も、職業も違う若いころの自分を振り返る。その時に大切に思っていた人のことも、ジュリエッタはすべてを書き記しながら回想している。
若いころの回想で、ジュリエッタを演じる若さあふれるアドリアーナ・ウガルデ。ジュリエッタは年を重ねたエマ・スアレスが演じる姿も美しいけれどどこか影がある。その若いころはなんとはつらつとして、目が輝き、屈託のないことか。肩の張ったファッションや、メイクからも時代の経過が感じられて、時間を、時代を簡単に超えていく映画の世界に引き込まれる。
私のもとに帰ってくる
ジュリエッタが過去を捨てたのには理由があった。愛する夫を最後まで信じ切れず、不幸な事故で亡くしたことへの罪悪感。それゆえの娘との別離。
夫を亡くした時点で自分が悲しむばかりで、娘のケアができなかったことは、母子の関係に致命的な亀裂を生んでいた。そして、打ちひしがれ続ける自分から、離れていった、娘。彼女は、母より大人にならざるを得なかった。
それでも、娘が自分のもとへ戻ってくると強い期待を抱いていたジュリエッタのエゴと罪悪感の日々が苦々しく回想される。
娘のためにバースデーケーキを3年間用意し続け、それを一口も食べずに捨てる儀式の重々しさ。自責の念が、自分をじわじわと苦しめていく様子が痛々しくつづく。その傷を隠したまま日々を重ねてきたつらさを想像する。そして、新しい生活をしても軽くなることのない重しとなってジュリエッタの影はさらに深くなっていく。
母であり、人であり、娘であり、人である
母を、娘を一人の人格として認められるかが、この母子の間には欠けていた。それでも、娘は自分から離れた時点で、母より先に大人になっていたのだ。
心神喪失の時期に母が娘に甘える姿は、娘を満足させると同時に深く傷つけていたのだはないだろうか。頼るべき母の存在が見えない中、娘は相手が逃げ出したくなるほど友人にすがっていた。当の母親はそれにすら気づかないままもがいていた。
守っているようで守られている。誰かのために何かをする自己犠牲の精神は、自己満足の精神とかなり近いところにある。その相手が不在になってしまうと、どうやって生きればいいのかわからなくなってしまう人もいるだろう。ジュリエッタのように。
親は子供を保護する役割をいつか終える。
保護する関係から、大人として対等に向き合うための移行期間が必ず必要だ。その時期をうまく乗り越えられなかったケースが作品の二人に当てはまる。すがられるだけの存在でも、すがるだけの存在でもない新しい親子関係を構築する巣立ちの時期を、夫の死という最悪な出来事とともに迎えてしまった。運命のいたずらが、ふたりの人生の歯車を狂わせた。
誰もが希望を見出すラストへ
娘を見失ったジュリエッタのように。ぬけがらのまま後悔を抱いている彼女を支えたのは、運命的な一通の手紙だった。マドリードのアパートメントで待ち続けたジュリエッタが、自分の人生を取り戻すことができたのは、めぐりあわせとしか思えない。小さくて、やさしい奇跡。
人生の中で、きっと後悔を晴らすチャンスがめぐってくると自分にも思えるような優しい視線を感じる。立場も、住む場所も違うけれど、どこか自分にも引き寄せて考えられる。
「オールアバウトマイマザー」「ボルベール」など、人生を俯瞰するような作品が魅力的なペドロ・アルモドバル監督。取り立てて大きなドラマのあるわけでもない、一人の女性の人生に起こる幸せと不幸せ、絶望と希望を巧みに描き出している。
漁師の街、アンダルシアの田舎、都会的なマドリードと、カラフルなスペインのいろいろな地域性が見られるのもこの作品の素敵なところ。旅をするように、過去に落としてなくした物を、拾いに行くことができる、そんな希望を感じるあたたかい作品でおすすめ。
※カナダの女性作家アリス・マンローによる原作「Runaway」は読んでみたい。8つの短編からなり、そのうちの3つが「ジュリエッタ」で表現されている様子。日本語はまだない様子。
『リアリティのダンス』感想 暗い少年時代も未来へつながっている
少年時代の思い出は夢の中に
ホドロフスキーの『リアリティのダンス』は、彼自身の過ごした少年時代をベースに作られた自伝的作品と言われる。
脚色は強く、登場する人物は夢の中の存在のように誇張されているように感じる。
例えば、母親はずっとオペラ調で歌うように、叫ぶように話しかけてくる。胸元も強調され、母性的な象徴なのだろうか。一方、少年と関わりのない人たちはみな仮面をかぶっていて存在感が全くなく、不気味だ。
子どもの頃の思い出を浮かべる時、覚えている部分は強調し、忘れている部分はグレーがかったような記憶のあり方が表現されているのだろうか。
また、作中では、主人公の少年が見聞きし、体験することが次々と私たちに襲い掛かってくる。見世物小屋で意地悪なピエロたちが出てきたり、死んだイワシの群れが足元に広がったり、消防隊員が殉職してその葬列に加わったり、嫌なイメージ、恐ろしい出来事が多い。
見ている方は悪夢のようだけれど、他人事とはいえ、自分の中の幼少期の嫌な思い出を想起させる繋がりで、つい見続けてしまう。
子ども時代の良い思い出ばかり見続ける「永遠の少年」もいる中で、監督は、負のイメージばかりを集めている。少年時代の暗い体験が、表現者としての葛藤や、社会への問題提起などにもつながるのだろうか。
時代に流された父親の影響力
一つの物語として見る時に、少年の成長を助長させるのは父親の存在だ。偏ったマッチョ思想で、共産党の同志の父親が、社会運動と時代の変遷の中で翻弄される。
初めは、少年にも男らしさは弱さを見せないことだと伝えていた。美しい祖父譲りのブロンドを床屋で刈り取って、ユダヤ人の黒髪にさせるシーンも象徴的だ。母親の世界から少年を奪い、男らしさを強要する。
そして、自分の思想が変化する中で家族から離れ、いくつもの困難に遭遇して戻ってきた時には、別人のようになっている。子どもにとって親の思想は教育に色濃く影響するだろう。その父親の影響で少年も翻弄される。
まるで、ダンスを踊る操り人形のように。父親が躍れば子どもも踊らされるのだ。
父親に対して、オペラ歌手のような母親だけが常にぶれないのが対照的だ。あれほど強い男性を目指していた父が崩れていく中で、女性らしい母の方が常にゆるがない。それが、思想や社会問題といったリアリティとダンスをしている父親を引き立てているのも面白かった。
未来につながる今
作品の中で、老人が少年を救おうとするシーンが幾つかある。その老人がホドロフスキー自身だ。
ユダヤ人だからと、クラスメイトにいじめられ、身を投げようとした時も、ダンスを踊るように、生きることを示唆する。その中で、未来を見つめることを教えてくれる。
過去の自分は未来の自分へつながる、少年にとっての理不尽な今も、先につながり自分を作っていく大切なプロセスなんだというメッセージが伝わる。
少年時代は美しい思い出ばかりではない。それでも、諦めないで、柔軟に生き続けることが必要なんだという美しいシーンだった。過去の自分に語りかけたい時がある。それを今生きている少年たちにも伝えたいと感じさせる内容。毒気が強いシーンも多いが、最後まで見続けてほしい。
「勝手にしやがれ」ゴダール 感想
ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』1959年 フランス
勝手にしやがれという言葉のイメージ
ヌーベルバーグというフランスの映画界の革命の象徴的な作品として殿堂入りしている『勝手にしやがれ』は、映画評論家 秦早穂子が買い付け、タイトルもつけている。
これが、私にとってはフランス映画やヌーベルバーグのイメージを作った言葉になっている。
この作品についても、原題は「À bout de souffle」息を切らしてという意味で、英語なんてBreathlessとなる。走っていて最後は撃たれるから、息が切れている感じもわかるけれど、勝手な女や勝手な男が最低なことをしていて、それがなんだ、勝手にしやがれ、という気分にもなる。
勝手というのは良い言葉だ。勝手にすることが難しいから、勝手にしている人は注目を集めるし敵も作る。理解されない。
でも、勝手なことはそんなに嫌いじゃない。
決まり切った筋書き通りでも、決まりきった構図でもなく、勝手に作られた感じが自由で、私はヌーベルバーグらしいと感じる。
だから、『勝手にしやがれ』のラストシーンが大好きだ。ジーン・セバーグが唇をなぞり、ハードボイルドに決める。「最低」とつぶやく。
本来なら少しは気のあった男が死にそうになっていたら、駆け寄って抱きしめて涙したり「死なないで」というかもしれない。そうじゃなくて、なんだかいいなと思う。
ゴダール作品を見る時に
ゴダールは色々な引用が多くて、知識が追いつかないからあまり考えないようにして画を眺めたり、ストーリーも断片しか理解できなかったりする。考えれば考えるほど疲れて嫌いになりそうだ。
でも、勝手にしやがれと言うことばがどこかに沸いてきて、また、登場人物が勝手にしているんだろうなと、不条理劇を見ているような目線になる。
作った本人の求める見方ではなかったとしても、作品の楽しみ方は自由だ。勝手にさせてもらおう。と思うような、そんな取り違えをして、今でもたまに、ゴダールの映画を見ている。
『勝手にしやがれ』という言い訳を持って。カットがうつったり、跳んだりするこの時期の映像のテンポ、音楽のリズムや入り方が好きだ。だから勝手に好きでいる。
※新字幕版上映終了しているけれどまだどこかでやるかも
フランソワ・オゾン監督 「17歳」の危うすぎる輝き
『17歳』フランソワ・オゾン監督 2013年 フランス
17歳のコントロール不能な魅力
17歳の少女イザベル、自分ではすっかり大人だと思っているけれど、心はアンバランスだ。イザベルがバカンス中に駆け足で処女を失なった時、自分の中の少女だった部分が現れ、その様子をじっと見つめていた。
そして日常に戻って、イザベルは放課後、客を取り始める。好きでもない男に抱かれ何も感じない自分を、冷静な自分が常に見ている。何不自由ない暮らしをしていて、お金が欲しいのではなく、存在を確かめたいという危うい理由で始めた危険な遊びだ。
自意識の大きさが破滅の道を選んでしまうヒリヒリする展開。
正体の分からない自分の中の誰かに誘われ、男たちを誘う。こんなこともできる、みて、スゴイでしょと言わんばかりで、悲しくなってくる。
悪いコトするのは誰かのせい?
イザベルはフランスではよくあるステップファミリーの個を重んじる家庭に育っている。母親との関係、義理の父親との関係、離婚して別の家族を持った父親との関係…葛藤や悩みを、少なからず持っている境遇だろう。
複雑な家庭環境だけがイザベルの非行の原因ではない。特に、母親の「女」を意識し過ぎた行動には首をかしげる。奔放だった自分の経験を重ねて、娘にも「女の事情」を共通の秘密として特別扱いすることが多い。
その一方で、売春をすることへの潔癖さをモラルとして強要する。自分が不倫していることも棚に上げて、ヒステリックな被害者面は娘にどう映るかも考えない感じの悪さだ。
母親と娘は血はつながっていても別の人間だ。それなのに、母親自身の中にも少女の自分がいて、娘に重ねている。だから、娘の行いに、自分が汚されたような気がしているのかもしれない。
イザベルは女を強調する母親に対して、自分の中の女を使って対抗し、認められようとしているようにも見える。そこですれ違う想い。結局、娘を女として見ようとしても、見られない母親との不毛な争いの結果、お互いに傷ついている二人。
イザベルの中で向き合いきれない女の自分を、母親には向き合って認めて欲しいという叫びが聞こえる気がした。
17歳を導く「大人」が必要
ぶれない大人が「これで大丈夫。」と言ってくれることが、どれだけ、不安定な17歳の少女の支えになるか。
作品のラストに、夫が最後の愛人と最後の時を過ごしたホテルに会いに来る夫人を、シャーロット・ランプリングが迫力たっぷりに演じている。そして彼女こそが、イザベルを苦しみの中から救い出してくれる大人の役割を果たしてくれる。
相手を攻撃するのではなく、むしろ嗜めるように、慈しむように、最後の愛人を受け入れる。そして、イザベルは自分の中の「17歳」という持て余すほどの若さに折り合いをつけて、ホテルの部屋から去っていく。
夫人が感情的にならなかったのは、「夫と出会ったのは17歳の時だった」その言葉に全てが集約されている。夫が最後に愛したのは出会った頃の自分だったという感覚を持ったのかもしれない。皆が自分の17歳を心の中に忍ばせている。
美しいから誘われる。美しいのが悪い。
作品の中で、義理の父親が言う「あの子は美しいから」というセリフ。イザベルが美しいから男が誘われてしまう。という身勝手な言い分。
外から見られる自分と、自分の中の自分がちぐはぐで、暴走してしまう不器用さを止めてあげてほしいのに、自分はその役割ではないと線を引いてしまうこの義父は、どこかで責任を放棄している。
自傷行為のようにくりかえれる客との関係は、モラルを越えて、女の性について考えさせる。もっとも古くからある商いが売春だ。売り物は買い手があるから用意される。
美しい17歳だからいけないのではなく、それを買う文化がいけないのではないか。
それが分かっていても、義父のように見てみぬふりをする人の多さ。性は個人的なもので、身体の一部であり、人生の一部。もともと売り物として授かる身体ではないのに、そうなってしまう悲しい境遇はいくつもあるのだろう。
そんな中でも、自分の価値を承認されたいがために客を取るイザベルを通して、深く考えさせられる。
シャーロット・ランプリング演じる夫人の「若い頃は男に金を払わせたかった…でも勇気がなかった。」という言葉には違和感を感じる。けれど、その時しかない価値の高さを表現したのだろうか。
フランソワ・オゾン監督の描く女と女
『スイミング・プール』でも、同様の構図で、若い女と熟年の女のミステリアスで苦々しいやりとりがあった。 取り戻せない過去を見ているような、シャーロット・ランプリングがどちらも印象に残る。
残酷な時間の隔たりを表現するために、女性の肉体の若さを扱う映像はオゾン監督らしいなと感じた。そして、女同士の軋轢を母親と娘という構図を加えて描いている『17歳』は、道徳的に破たんしているけれど、目の離せない作品だと思う。
母親役のジェラルディン・トンプソンの無神経な母親の嫌な感じは好演だった。イザベル役のマリーヌ・バクトは言うまでもない美しい娘役だったので、さらに悲しくなってしまう。人生の輝かしい一年に、なぜそんなことをするのか、理解しがたいところに、この作品の異常な魅力がある。
※『スイミング・プール』
シャーロット・ランプリング×リュディビーヌ・サニエ
※少女と大人の境目を揺らぐ「17歳」について語るマリーヌ・ヴァクト(2014年)
※フランソワ・オゾン監督、マリーヌ・ヴァクト主演 新作『L'amant double』がフランスで撮影中!(2016年12月から)
マッツ・ミケルセン出演『アフター・ウェディング』 家族の真実が明かされる
スザンネ・ビア監督 マッツ・ミケルセン 2006年 デンマーク、スウェーデン
幸せを破る二つの真実
家族に見守られた結婚式、幸せの絶頂にいたアナ。その結婚式には、いわくつきのゲスト、ヤコブ(マッツ・ミケルセン)がいた。
ヤコブは慈善事業の資金調達のため、アナの父親で実業家のヨルゲンにコペンハーゲンに呼び戻されていた。しぶしぶ出向いたアナの結婚式で、かつての恋人と再会する。それが、アナの母親だった…。
偶然の重なりからの展開ではあるけれど、家族の絆を深める結婚式で、花嫁の母親は過去からの来訪者に戦慄する。
そして、物語が進むほどに、この再会にはもう一つの真実が隠されていることに気づかされる。
「父親」の葛藤(以下ネタバレ)
自分が愛した女性が子どもを産んだことを知らずに、インドで孤児と心を通わせながら人生を歩み続けてきた孤独な男と、愛する女性と彼女が別の人を愛して生まれた子供を自分の子として慈しむ寛容な男。
インドで孤児院を作り奔走するヤコブと、コペンハーゲンに居を構えて成功しているヨルゲンの、全く違う人生が、くしくも愛娘アナの結婚式をきっかけに交差する。
一方、それまでの安定していた生活が変わってしまったアナとヘレナ。本当の父親と会うことを心の底では強く求めていたアナの気持ちが爆発する。ヘレナは、自分の愛した二人の男が同時に存在し混乱し、娘との衝突に戸惑う。
ヨルゲンにも、父親として、家族にとって自分の変わりは誰もいないと思いたい一方、いざという時に悔いを残したくないという、葛藤が感じられる。平静を装いながらも辛いヨルゲンの気持ちが、随所に見られて切なくなる。
人生の中で真実が常に最善とは限らない。それでも、家族を思う気持ちからヨルゲンはヤコブを呼び戻したのだろうか。その不可解な行動も次第に解き明かされていく。
スザンネ・ビアの描く家族の役割
スザンネ・ビアの作品は、家族のつながりが丁寧に描かれている。彼女の作品は、それぞれの人物が個人の気持ちを越えて、父親、母親、といった役割を演じているように見える。
「アフター・ウェディング」でも、そうすべきことを行うヨルゲンは、アナの父親としての役割を果たそうとしている。それを受けて、ヘレナもヤコブも過去に向き合う勇気をもらう。静かな調和を感じるラストは、胸にじんわりとヨルゲンの想いを残している。
堅い表情の精悍なヤコブ(マッツ・ミケルセン)に対して、ふくよかで温和な印象のヨルゲンは対照的だ。二人の全く違う魅力のはざまで、母になる前の自分がちらっと顔を出す女心が、シセ・バベット・クヌッセンによって上手く演じられている。
派手さはないけれど、混乱と気まずさを越えて平穏に向かう家族を、淡々としたタッチで描く大人の作品。
※スザンネ・ビアの家族を扱った作品はじわじわ考えさせられる。
2010年『未来を生きる君たちへ』
暴力をテーマに、「正しさ」を教えようとする父親の姿と、世の中の矛盾に戸惑う子どもたちが描かれています。
2004年『ある愛の風景』
戦争が奪ったのは、家族の時間だけではなかった。家族のつながりまで壊れていくやりきれない内容。
2009年に『マイ・ブラザー』でハリウッドリメイク
「肉体と火山」 クレマンス・デメム作 マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバル2017より
『肉体と火山』La chair et les volcans
クレマンス・デメム監督 2015年 フランス (短編21分)
https://www.facebook.com/lachairetlesvolcans/
マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルにて視聴
あらすじ
あるフランス・オーベルニュ地方の小さな町、ラ・ファイエットが舞台。心臓に病気を抱えた少女ロラが、制約の多い生活を送っている。
十代の彼女は、遊びたい盛りなはずだが、いつも一人。心臓の疾患や父子家庭という環境もあり大人しく、どこか諦念のようなものをおびている。周りと馴染めずにいるロラが、ある体育講師との出会いをきっかけに、自分の想いを現わしていく。
ラストシーンでは、自由だった子供の頃のように自分を解放した少女の輝きがみられる。
感想
ロラが、父親に向かって「パパ、かっこいい(美しい:beau)」というシーンが好きだ。最後の言葉になるかもしれない時に、そういう洒落たことをサラッと言える。秘めた大胆さが魅力的なヒロイン。
輝きたいのに輝けない10代の少女の葛藤がコンパクトで的確に描かれていて、胸が苦しくなる。肉体はただの物質で、精神は火山のように燃え上がる時がある、そんなメッセージが伝わってくる気持ちのいい短編だ。
前半からはりつくように彼女の背中を追っているカメラの目線が、見守っているようでもあり、後押しするようにも見える。ロラの活き活きとした姿が潔くて美しくて切ない一作で、おすすめ。
※青山シアターで第7回マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルが開催中。
期間2017年1月13日から2月13日。登録すれば短編は無料でネット視聴可能。
本作は第一弾1月26日まで。
http://aoyama-theater.jp/feature/myfff2017