styloの映画日記

WEBライターによる映画の感想、コラムなど雑記ですが記していきます。

ジュリエット・ビノシュ&ルー・ドラージュW主演 「待つ女たち」 イタリア映画祭レポート

2016年5月1日 有楽町朝日ホール イタリア映画祭

「待つ女たち」上映+監督の質疑応答

フランスだけでなくハリウッドにも進出し、今では大御所となったジュリエット・ビノシュと、新進気鋭、ほぼ無名だったルー・ドラージュのダブル主演。イタリアのシチリアを舞台に、息子の喪失に戸惑う母と、亡くなった息子の恋人とが過ごす数日の様子を繊細に描いた作品。

チャーミングなピエロ・メッシーナ監督のQ&Aでは、作品制作の裏話から、映像に込められた想い、仕掛けが語られた。

 

【作品あらすじ】

喪に服すイタリアの屋敷では、石仮面のような女性(ジュリエット・ビノシュ)が電話に向かって言葉少なに話している。彼女は若い息子を亡くしたばかりの母親で、電話の相手はその恋人だった。

彼に会いに来る彼女(ルー・ドラージュ)は、ちょっと不安げだ。大きな屋敷では葬儀が行わrているが彼女には恋人が死んだことは告げられない。違和感を感じながらその屋敷に滞在し、彼からの連絡を待つことになる。

母親は息子の恋人とすごすことで、次第に生きていくことの苦しみや辛さを受け入れられるようになっていく。

 

【作品のみどころ(ネタバレ含む)】

・生気の抜けた母の表情に対して、何も知らない恋人の奔放な感情表現は対比的に描かれている。私有地の湖へ入っていく時の光をいっぱいに浴びた健康的な背中は生を強く感じさせる。

・彼女から息子の様子を聞き出そうとする母。トルコ風呂(サウナ)に二人ででかけるシーンは、焦りのような策略のような会話が投げかけられる。事実を知る者が、隠されている者を翻弄するようでヒリヒリする。

・「生きていれば次の恋をする。それは昨日だったのかもしれない。」死んでしまった息子に対して生きている彼女は前を向いていくべきだと、突き放そうとする母の言葉。これはなかなか言えない。

シチリア島の復活祭を舞台に亡くなった息子を探し求めるクライマックスは、聖なるものによって心を開放するようなシーンになっている。暗闇と蝋燭(?)の火の対比、浮かび上がる白頭巾の集団がおどろおどろしい。

 

【監督質疑応答からの話】

(映像について)

役の心情や、今後の展開などを象徴し、暗示している。

(作品の背景)

子どものころに見たシチリアの復活祭が心にかかり、それを突き詰めていった。

(女優について)

この母親を演じられるのはジュリエット・ビノシュしかいないと思った。ルー・ドラージュはオーディション最後の日に遅刻してきた。それまでの恋人役のイメージを覆すような新規性があり、30分のオーディションがかなり長引いた。彼女の遅刻によってイタリアへ帰る便を逃したとも。

(ラストシーンについて)

息子が必ず行くはずだった復活祭の中であたりを見回しても、どこにも見つけられない。生きていてほしいと熱望する息子は死んでいる。それを受け入れた瞬間だった。

 

【作品感想♪】

始まってすぐは暗い画面、暗い表情に暗澹たる気持ちがした。しかし、見終わってみればすがすがしい、心の蓋がゆるむような気分になった。子どもを思う母親の気持ちは、いつでも偉大だ。その偉大さによって、母親は苦しめられる。

その子どもを急に失えばなおさら。見えなくなっていた息子の姿を見たいから、彼の恋人を引き留め、彼女の記憶の中から探そうとしたのだろう。その姿は、恋人の彼女にとっては(bizarre)変に移り、居心地の悪さを感じていた。

重ねた嘘がばれること、その露呈の仕方に気をもむ。ここで重要なのが、家の使用人の男性。フランス女性による心理戦や、言葉遊びなどが続く中、どっしりとしたイタリアらしさを感じさせてくれる。彼の視点は、どこまでもまともなので映画の進みにバランスを与えてくれる。

息子を探すシーンで仮面の表情から、本当の自分に戻ったビノシュの演技が素晴らしい。ここにいるはずの子がいない不安と、苦しさがあらわされている。泣き叫びながら探したかった、そして見つけたかった息子との叶わぬ再会には胸を締め付けられる。

悲しみで不感症になってしまう自分の心を少しづつほどいていく過程が繊細に丁寧に描かれている。悲しいんだけれど悲しめない人がいる、悲しみをうけ入れることも生きているということなんだと教えられた。

 

※noteに出してい記事ですが、有料にしていたら誰にも見られなかったためこちらに引っ越しました。見てもらうのは、なかなか難しいですね。