styloの映画日記

WEBライターによる映画の感想、コラムなど雑記ですが記していきます。

「サンバ」 自分の居場所を求めて、生きていく移民たち 感想

サンバ [DVD]

「サンバ」2014.フランス、パリを舞台に、アフリカからの移民サンバ(オマール・シイ)と精神を病んだ移民サポートのアリス(シャーロット・ゲンズブール)の恋が動き出す。エリック・トレダノ&オリビエ・ナカシュ監督とオマール・シイは「最強の二人」以来のタッグ。

 

不法移民の現実で知らなかった事実を発見しつつ、友情や恋愛、ユーモアを含めて面白くみられる作品になっている。包容力のある役は、温かい笑顔がチャーミングなオマール・シイにぴったりだ。

 

samba.gaga.ne.jp

移民が抱える孤独

滞在許可書を得ることの難しさ、不法就労をしながらも祖国に送金しなければいけない移民生活の苦難が描かれている。フランスでは、結婚しているかどうかが滞在する権利に大きくかかわってくる。

ともすれば、出稼ぎのためにフランス国内で結婚し子どもを設ける移民は後を絶たない。それも一つの生きる為の形であり、フランス側も人口問題などでうけいれに積極的になっていた時期もあった。

しかし、時流としては移民排斥など、一方的に変わっていくフランスの社会背景があり移民のあり方をめぐって根深い問題が表出している現状。作品ではそういった移民の孤独が、さまざまな出来事を通して描かれている。

 

移民として特別な目で見られながらも、オマール・シイ演じるサンバは地道に生きて行こうとしていたが、不法移民になってしまう。伯父と同居しながら、常に検挙され国に返されることにおびえる。

フランス人と同化しなければいけない、自分らしく振舞ってはいけない、行動に制限が必要、名前も替えて不法に仕事を得なければならない。そんな影の生活の孤独がありありと伝わってくる。

スーツを着て革靴で、雑誌を抱えて地下鉄に乗れ。それが同化する方法だと伯父はアドバイスする。その窮屈さが、サンバを追い詰める。

移民同士の関係

この作品で面白いのは移民の仲間ができるところだ。タハール・ラヒム演じるブラジル人は陽気なラテン系で、2人で不法移民として助け合いながら生きていく姿がユーモラスに描かれている。

一方、移民収容施設で出会ったアフリカの友人との関係は揺れ動く。移民同士は協力する必要がありながらも、生き残りをかけて常にお互いがギリギリの状態であると描かれている。

長く移民として働いている伯父に関しても、移民の生き方を指導してくれる大切な存在だ。不法移民となってしまっては、現地にいる血縁が最も信頼でき、強いきずなになる。しぶとく居場所を求め続ける移民たちの姿が、今のフランスでは当たり前の光景になっている。

移民をサポートする存在

移民に仕事を斡旋する場でも、不法移民は偽造カードでごまかして働くシーンがある。さらに、ブラックに不法移民を集めて仕事を流すあやしい連中もいる。

国元にお金を送るため、仕事をしに来ているのに、閉鎖的な労働環境下あぶれる。こうなるのは目に見えていただろう、それでも、フランスで仕事をしないといけない選択肢のなさが絶望的だ。

中には戦火を逃れてきた難民もいる。彼らが小さな仕事を奪い合う様子に、移民たちの苦境が見える。

そうした移民の抱える法的な問題をサポートする組織にいるのが、シャーロット・ゲンズブール演じるアリスだ。彼女たちの仕事は多様なフランスの移民たちの悩みを聞き、法的に可能であれば滞在許可を得られるように裁判を手伝うこと。

しかし、サポートする側の微力さも、この作品では描かれている。全く言葉の通じない移民だっている。移民を受け入れるフランスの政策がある限り、ここに相談しにくる人数は減ることはないのではないかと思える。

心を寄せあうことができるか

アリスは人を支える仕事をするには神経質で、不安定に見える。それでも、サンバに出会い新しい価値観を人生に見出していく。

サンバの不安定な不法移民の立場を支援する不安定なアリス。二人が心を通わせていく様子は恋のようでもあり、強迫観念のようにも見える。

人間関係はかけたものを補い合うことで、バランスがとれ調和する。二人が調和のとれた関係になっていくのか、気になるところだ。支えているようで支えられている。病んだ大国フランスを、移民たちが法を犯してでも助ける存在になれるのかという拡大解釈をしてしまった。

 

幸せを運ぶ映画「100人の子供たちが列車を待っている」が見たい

100人の子供たちが列車を待っている [DVD]

映画のワークショップと子供のドキュメンタリー

イグナシオ・アグエロ監督、チリ映画、1988年。テレビ放送か何かかで、私も見たのはかなり前になる。いまだに心に残る一番といえる作品。

映画作りを学ぶ子供たちの様子はほとんど忘れてしまったけれど、列車を見送るために走る子供たちの笑顔が本当に素晴らしかった。

違う時間違う場所、出も子どもたちが映画を通じてこんなに笑顔になれることを、ずっと心にとめていられる。幸せな作品。

映画の歴史と、変わらない価値

列車にはリュミエールの「列車の到着」が意図されているという。映像が映し出されること、再現されることに対する驚きの歴史を含みながら、子どもが新しいことと出会う目の輝きが記録されている。

映像で世界を持ちかえってきたリュミエール兄弟。時間も空間も越えて、軽やかに世界を自分の物にするような記録映画の魔法が生きている。

 

映像が溢れる時代、ユーチューブを使いこなすティーンも大勢いるだろう。映画の作り方も今とは違う。インターネットで人々の距離は縮まったかもしれない。

 

色々な背景が変わっても、この作品の良さは変わらない。それは子どもの好奇心、素直な笑顔の素晴らしさと、記録映画の瞬間移動的なマジック感だと思う。なんだかわくわくする、こどもと映画のマッチング。

 

タイトルをずっと、「100人の子供たちが映画を待っている」だと勘違いしていたが、列車というところがさらにいいなと思った。ずいぶん忘れていしまっているようで、さらに何度も見直したいから、もうDVD購入しようかと思う。

 

www.uplink.co.jp

今回調べていて知ったのだけれど、こんな素晴らしい上映会もあったということで、また巡り合える時を楽しみにしている。

ブニュエル×ダリ 「アンダルシアの犬」 嫌なものは嫌だ(見たい) 感想

アンダルシアの犬 ルイス・ブニュエル監督 Blu-ray

好奇心は怪我のもと

「アンダルシアの犬」はシュールレアリストであり、映画監督ルイス・ブニュエルの金字塔。シュールレアリスムといえば、サルバートール・ダリの方が一般的に知名度は高いだろう。

 

その二人が協力してできたこの作品は、おそらく見た人を必ずと言っていいほど嫌な気持ちにさせる。

 

まず、アンダルシア+犬 その組み合わせは何だろうという好奇心を持たせる。そこから見ようと思うかどうかは人それぞれだけれど、1928年という年代からもわかるように、今のような流暢な映画の構成は期待できない。

そのうえ、超現実的(現実にはあり得ないような想像力と自由な発想の実験)な作品ということで、手にとる人は少ないかもしれない。今の時代ならもっと巧妙で、ショッキングで、度肝を抜くような作品もいくらでもある。

 

しかし、一度見ると一生忘れられない映像体験をするならこれがおすすめだ。

 

嫌悪感をたっぷりと

この作品が白黒、実験、シュールレアリスムブニュエル&ダリという条件を抜きにしても、見た人に絶対約束されているのが嫌悪感。

 

有名なシーンに女性の瞳をカミソリで切るシーンがある。実際は牛の眼球という話も聞いたことがあるけれど、この挑発的でサディスティックなシーンは、映画を「見ている」私たちを攻撃している。

それと同時に、どんな映像も作り物で、私たちとは関係のない世界なんだという冷ややかなメッセージも感じる。

 

私は映画の世界観に浸るのが好きだから、すごく、嫌なシーンだと思う。

 

他にも「わき毛」のシーンや「あり」のシーンなど、不快な映像が連なっている。わたしたちにはちょっと分かり難いけれど、キリスト教を冒涜するシーンも注目だ。

 

見たいと思うかどうか、お任せするが、ちょっとみてみて、とにっこり笑っておすすめしてみたい。

見る前と後では、映画との付き合い方も変わる「実験映画」。芸術の秋にぜひ。

シュールレアリスム宣言集

美術手帖 2016年10月号

「メランコリア」 吸い込まれてしまう前に壊れる 感想

Melancholia

 

ラース・フォン・トリアー監督 2011年 デンマーク

キルスティン・ダンスト、シャーロットゲンズブールキーファー・サザーランド出演

絶望を前にした人びと

メランコリア」はラース・フォン・トリアー監督作品の中でも一番見やすいと思った作品だ。

キルスティン・ダンスト演じる新婦ジャスティン、シャーロット・ゲンズブール演じる姉のクレア、キーファー・サザーランド演じるその夫といった、よく見る顔の3人がメインで進むストーリー。

巨大惑星の衝突を前に、それぞれが壊れていく様子が描かれている。

 なかでも、ジャスティンの破綻ぶりは終始すさまじい。結婚式を前にしたシーンから精神が不安定な予兆がみられる。その様子に不安な表情のクレアと、一見落ち着いている夫。とにかく居心地の悪い時間が過ぎていく。

 

ジャスティンとその両親によって結局結婚式は台無しになり、クレアはイライラ。見ている方も振り回される展開にイライラする。この居心地の悪さは、ラース・フォン・トリアーの作品には欠かせない要素で癖になる点でもある。

 

そして、惑星メランコリアが近づいてくる。

これが、ジャスティンにすれば、吉報となり、狂気を宿した心は解放されていく。一方、死にたくない、家族を守りたいと思うクレアは苦しみながら徐々に壊れていく。

 

ジャスティンもクレアも、一方は死他方は生への愛着が強く、その対比がこの作品で好きな部分だ。

淡々と破滅する世界

地球が滅亡するくだりが、ものすごく淡々と描かれているので、全世界が同時にパニックになったり、人類の運命をかけて闘ってみたりといった葛藤がなく冷え冷えとする。

 

地球最後の瞬間、恍惚を感じるジャスティンには同調できないが、狂気の美点を見ることができる。

 

宇宙が進み続ける限り、今は永遠ではないし、命はいつだって風前の灯火のようなものだ。それでも一つ一つの存在がそれぞれの個性を持っている、醒めた世界観がメランコリアとの出会いによって浮き彫りにされている。

 無に帰すことは恍惚であり、恐れることではないという負の強さに引き込まれそうになる、映像の美しさも魅力。淡々と破滅する世界を眺めながら、寂しさ、恐怖、無力感を覚える。見終わって、身体から力が抜ける作品。

秋の印象といえば「ジュールとジム」(突然炎のごとく) 感想

突然炎のごとく/恋のエチュード 【DSDリマスタリング】

寂しいから秋を感じる

ジュールとジムという原題が気に入っている。しかし、これは三角関係を描いた作品だ。だから、女性の名前がないとおかしい。

ジュールとジムとカトリーヌ」または「カトリーヌとジュールとジム

カトリーヌという、二人の運命の女性を演じたのは麗しいジャンヌ・モロージャンヌ・モローは寂しさを感じさせる眼差しが魅力だ。

 

このタイトルがあらわすように、カトリーヌもきっと、ジュールとジムの友情に入っていけない疎外感を感じていたのではないかと思う。女として愛され求められても、満たされない。そういう表情を「あの」最後のシーンまで見てしまう。

 

寝ることが、決定的に付き合っているということではない、フランスの恋愛イメージも、この作品がかなり固定的にさせたと思っている。その悲しさや寂しさ、不安も同じように含んでいる。

作品でも結婚をしようとするで問題が起こる。自由を求めるのに束縛されたいという不可解な人間行動は、どちらが叶ってもどこか寂しくなるものなのかもしれない。

 

突然ジャンヌ・モローに出会ってしまう作品

いつまでも、夏のように輝いていたいのに、人生がそうさせない。それならいっそという破綻を求める破滅的な運命を持っているのはカトリーヌなのではないかと思う。

 

ジャンヌ・モローを好きな理由は活き活きしていても破滅が見える稀有な女優だからだ。

 

だから、彼女が演じると、エロスとタナトスのように同じくらい強く生の美しさと死の恐ろしさが共存する。アンビバレントな魅力をカトリーヌに、ジャンヌ・モローの表情に見てしまう。それだから目が離せなくなる。

 

ジュールとジム」のように、幸せになりたいのに、なれない。ファムファタルに出会ってしまった男たちのように、カトリーヌに心を焦がされる。

 

だから、「突然炎のごとく」でももちろん良い。

「キャンディ」 60年代的ハチャメチャロリータエロティック 感想

キャンディ [レンタル落ち]

ロリータ顔のスウェーデン美少女を狙う狼たち

ファッションに惹きつけられ女ともだちと見に行って、ちょっとはずかしかった映画。

原因は、すぐに襲われてあられもない格好になってしまう女子学生キャンディ。

でも、その甘い顔とは反対の真面目な発言をするところがまた、可愛い。

 

男の理想とする、可愛くってブロンドで、幼いのに体は女で、真面目なのにエロイという目を覆いたくなるように無防備なキャンディ。

 

教職者も庭師もその魅力にたぶらかされてしまう、勝手な男の妄想が詰め込まれたドタバタコメディ。最後は父親が理想の男のように登場するという、魔の作品。

 

ども、なぜか、憎めないのは、バカな男をもてあそぶキャンディいつまでも無垢なところだ。すれていかない明るさが貫いていて、一緒に笑ってしまう。

 

オオカミの中にはリンゴ・スター、シャルル・アズナブール、マーロン・ブランドといった大物が混ざっているところがまた、笑いを誘う。

 

エロを笑い飛ばす作品は、神経質にならずに見るのが良いという見本。60年代のファッションを感じる、記憶から消せない作品。

「NTL フランケンシュタイン」 孤独と愛に苦悩する二人の主役 舞台の上映レポート

www.ntlive.jp

 

2016年8月28日 Bunkamura ル・シネマにて

ベネディクト・カンバーバッチ=博士

ジョニー・リー・ミラー=怪物

カメラを通して見る舞台「フランケンシュタイン

ナショナル・シアター・ライブの迫力が映画館で味わえるというのでロンドンに行くのはリソースが足りない身としてはありがたい企画だ。

 

初めにナショナルシアターの歴史を簡単に紹介し、その後、フランケンシュタインについての予備知識が与えられる。フランケンシュタインは怪物の名前かと思っていたが誤解で、博士の名前。怪物は名前すら付けてもらっていない。

 

舞台の映像化の利点として、俳優の表情が間近で見られ、空間が一瞬で切り替わる舞台装置の動きや、全体像が俯瞰で見られるのも、良かった。

 

ダニーボイル演出で音楽はアンダーワールドといえば「トレインスポッティング」のコンビ。得意なテクノと融合したテンポのいい演出が見られる。ゴシックホラーの「フランケンシュタイン」が重々しくならなず、時々笑いがでるようなモダンな舞台として楽しめる。

 

グロテスクでユーモラスなフランケンシュタインに引き込まれる

本編が始まると舞台に取り付けられた異様な装置から現れたのは、ジョニー・リー・ミラー扮する怪物。異様な動きと、異様な声に緊張が走る。

 

ジョニー・リー・ミラーは怪物の演技に2歳の息子の様子を参考にしたと言っていたけれど、新生児から立ち上がって歩き出す子どもの発達に要素を取り入れていたのだろうか。どこか幼さの感じられる挙動はフランケンシュタインの無垢さを感じさせる。

 

本来心の優しい怪物は創造主に捨てられ、世間に捨てられ、恩師からも(実際はその家族)捨てられてしまう。復讐することしか生きる原動力にできない哀れな存在。

 

対照的に、創造主であるフランケンシュタイン博士は人の心を顧みないエゴイストで、ベンディクト・カンバーバッチが演じている。冷酷な心には、神の手を持つという傲慢な野心が宿っている。

 

この対照的な2つの存在が、ぶつかりながら恐ろしいストーリーが繰り広げられる。

 

心ない科学者+心ある怪物の悲劇

冷血だった博士はフランケンシュタインの苦しみを通じて、自分が与えてきた周囲への不誠実さを顧みるようになる。フィアンセとの関係が少しづつ変わっていくのは愛に気づいた証拠だ。

 

しかし、博士も怪物も、誰かに必要とされる「愛」をめぐって大きな間違いを犯した。結果的に周囲を不幸に陥れながら、爆走する二人はどちらもモンスターになってしまう。

 

不遜になり間違った実験を行ってしまったのは彼が孤独だったせいでもある。その罰を受けながら、同時に強いつながりを持つ相手を得た喜びを感じているようだ。二人の孤独な男が長い旅に出るという新しいフランケンシュタイン像が見られた。

 

W主演の二人が競い合うように、お互いの解釈をぶつけるという前置きがあり、この作品は主演の役が交代する2パターンがある。カンバーバッチが演じる怪物バージョンも見てみたいと思った。またの機会を期待する。

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

「ホーキング」 未来を信じる科学者の青春時代 感想

ベネディクト・カンバーバッチ ホーキング [DVD]

生かされていると思える深い内容

「ホーキング」では、博士になる前のスティーブン・ホーキングが主人公だ。作品はケンブリッジの学生時代にALSで余命二年と診断され、徐々に体の動きが制限され始める様子を追っていく。

ホーキングは、一般相対性理論アインシュタインが避けた問いに挑んだという。その結果、宇宙の始まりにビッグバンがあったことを裏付ける理論を発見する。

 

科学と宗教はガリレオの例でわかるように対立している。作中でも、キリスト教徒のジェーンが神を信じることに対して、そうすると安心するのかと聞いているように、物理学者であるホーキングは神を信じないのは明白だ。

 

しかし、2年で亡くなると言われたALSと共に50年以上生き続けるホーキング博士には、なにか個人の意思を超えた力の影響を感じてしまう。

 

彼は過去の偉人ではない。ALSと戦いながら様々な活躍をして宇宙のふしぎをわかりやすい言葉で私たちに伝え、今も輝くように生きている。

  

ホーキングの苦悩と輝きの日々

作品で余命宣告を受けてから、水に潜る(呼吸を確認?)シーンが繰り返され、印象的だ。近づいてくる死から杖をついて逃げるように、宇宙誕生の謎にのめりこむ。

 

普通の生き方をさせたいという両親の言葉、当時の世間のALSへの不理解を乗り越えようとする家族のつながりも感動的だ。父親が息子のために奔走する姿は、共感できる。そのうえで自分の意志を貫く天才ホーキング。

 

一方、彼が恋したジェーンとの日々は病気という大きな壁に阻まれるが、少しずつ進展していく様子も描かれている。

 

しかし、この作品では、2人の恋パートは段階的で、それよりも、論文を書くまでの出会いや工程が丁寧に描かれている。恩師や協力者、対立する博士、後継のノーベル賞受賞者のインタビューなど、短いドラマに宇宙論にまつわる人間関係も盛り込まれていて知識も得られる仕組みだ。

 

ホーキングはまぎれもなく天才のひらめきを持ち、死が逃れられない重い病気でもある。この作品では二重の非凡さを持っている彼を支える家族や友人・恋人・恩師を称えたくなるポジティブさがある。

  

カンバーバッチの演技に見る深い理解

天才や奇人がはまり役というイメージが定着した主演のカンバーバッチがホーキングを演じる。彼は表情や視線、動き方の変化など細やかな演技で、ホーキングの焦りや幸福感を現わしている。

指先の動きにくさ、体重移動のしにくさなど、ALS患者への深い洞察によっていきついたと思われる。

 

2004年の「ホーキング」から10年後になる、2014年。アイスバケツチャレンジというムーブメントがあったが、カンバーバッチは5回氷水をかぶっている。サービス精神旺盛な動画には、「ホーキング」で一度演じたことのあるALS患者を応援したい気持ちが表れているのだろう。


Benedict Cumberbatch's Ice Bucket Challenge for #MND

 

博士の人生は続いていく…

それ以降のホーキングの人生を知るには、「博士と彼女のセオリー」が必見だ。「ホーキング」の内容だけでは終われない、彼とジェーンの恋の話、人生の苦しみや、悲しみといった奥行きが綴られた作品になっている。

 

博士と彼女のセオリー [Blu-ray]

 

 

木々を揺らす強い風と夏の日差し ジャン・ルノワール「草上の昼食」

 

草の上の昼食 (デジタルリマスター版) [DVD]

 

おおらかに自然に包まれる夏の午後

マネの「草上の昼食」と同名の映画作品は、夏に見るのにふさわしい。

絵画のような映画の中でも、特に映像であることに意味のある作品だ。画家の息子であるジャン・ルノワールだからなせる画面構成は動く絵画のよう。

それだけでなく、一人一人に個性があり、マネの怜悧とも思える現実的な画風よりもずっと、人間味があるジャンの父オーギュスト・ルノワールを多く引き継いでいるように感じる。

特に、水浴びする裸婦像を思わせる輝きがまばゆい。

 

ストーリーは、あまり問題ではなく、溌溂とした若い女の子の肉体が自然のなかに動いているところを見るための映画だ。演出されたエロティックではなく、自然でおおらかな様子がすがすがしい。

 

強い風が吹いて木々が揺れる。そこにいる人たちの心も揺れる。見ている方もちょっとざわざわするような。そういうちょっとした日常が描かれているのではないかと思う。夏の日差しと、明るい笑い声が印象に残る素敵な作品。

エドゥアール・マネ「草上の昼食」

エドゥアール・マネ 草上の昼食 F15 油絵直筆仕上げ|絵画15号812×690mm ゴールド

 

 ※オーギュスト・ルノワール「もたれる裸婦」

ルノワール もたれる裸婦 F12 油絵直筆仕上げ|絵画12号757×656mm 複製画 ゴールド

 

ルノワールの作品を生で見るなら8月22日まで

renoir.exhn.jp

 

「民族の祭典」 レニ・リーフェンシュタールの美的世界

民族の祭典【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

鍛えられた肉体の美しさという幻惑

オリンピックイヤー2016年はリオ五輪に沸いている。テロによる世界の不安定な情勢や、IOCの裏金、ロシアのドーピングといういくつもの懸念事項がある中でも、真摯にスポーツに打ち込むアスリートの姿は美しい。

 

ヒトラーに利用され、ナチスのプロパガンダとなってしまったレニ・リーフェンシュタールの作品「民族の祭典」。

徹頭徹尾、美的に鍛えられた筋肉美を捉えた、女性監督の目。

 

古代ギリシアの頃から、神に近ずくために裸で行われたというオリンピアを再現したように美しい肉体が画面にあふれる。

アーリア人を礼賛する目的に政治利用されてしまったのは、大きな罪だけれど、一つの作品として、スポーツする身体に向き合った結果生まれた美的な映画でもある。

 

迫力のあるカメラワーク。躍動する肉体。

 

今日オリンピックを見ていて、カメラの多さには驚く。重量挙げでは、床からの視線まであった。体操での超スローモーション映像など、人の肉体、超人の身体活動にはあくなき魅力がある。

 

そういう人心を突いた作品は、元ダンサーのレニ・リーフェンシュタールならではのものだったのかもしれない。恐ろしく美しい、呪われた作品だ。