「ホーキング」 未来を信じる科学者の青春時代 感想
生かされていると思える深い内容
「ホーキング」では、博士になる前のスティーブン・ホーキングが主人公だ。作品はケンブリッジの学生時代にALSで余命二年と診断され、徐々に体の動きが制限され始める様子を追っていく。
ホーキングは、一般相対性理論でアインシュタインが避けた問いに挑んだという。その結果、宇宙の始まりにビッグバンがあったことを裏付ける理論を発見する。
科学と宗教はガリレオの例でわかるように対立している。作中でも、キリスト教徒のジェーンが神を信じることに対して、そうすると安心するのかと聞いているように、物理学者であるホーキングは神を信じないのは明白だ。
しかし、2年で亡くなると言われたALSと共に50年以上生き続けるホーキング博士には、なにか個人の意思を超えた力の影響を感じてしまう。
彼は過去の偉人ではない。ALSと戦いながら様々な活躍をして宇宙のふしぎをわかりやすい言葉で私たちに伝え、今も輝くように生きている。
ホーキングの苦悩と輝きの日々
作品で余命宣告を受けてから、水に潜る(呼吸を確認?)シーンが繰り返され、印象的だ。近づいてくる死から杖をついて逃げるように、宇宙誕生の謎にのめりこむ。
普通の生き方をさせたいという両親の言葉、当時の世間のALSへの不理解を乗り越えようとする家族のつながりも感動的だ。父親が息子のために奔走する姿は、共感できる。そのうえで自分の意志を貫く天才ホーキング。
一方、彼が恋したジェーンとの日々は病気という大きな壁に阻まれるが、少しずつ進展していく様子も描かれている。
しかし、この作品では、2人の恋パートは段階的で、それよりも、論文を書くまでの出会いや工程が丁寧に描かれている。恩師や協力者、対立する博士、後継のノーベル賞受賞者のインタビューなど、短いドラマに宇宙論にまつわる人間関係も盛り込まれていて知識も得られる仕組みだ。
ホーキングはまぎれもなく天才のひらめきを持ち、死が逃れられない重い病気でもある。この作品では二重の非凡さを持っている彼を支える家族や友人・恋人・恩師を称えたくなるポジティブさがある。
カンバーバッチの演技に見る深い理解
天才や奇人がはまり役というイメージが定着した主演のカンバーバッチがホーキングを演じる。彼は表情や視線、動き方の変化など細やかな演技で、ホーキングの焦りや幸福感を現わしている。
指先の動きにくさ、体重移動のしにくさなど、ALS患者への深い洞察によっていきついたと思われる。
2004年の「ホーキング」から10年後になる、2014年。アイスバケツチャレンジというムーブメントがあったが、カンバーバッチは5回氷水をかぶっている。サービス精神旺盛な動画には、「ホーキング」で一度演じたことのあるALS患者を応援したい気持ちが表れているのだろう。
Benedict Cumberbatch's Ice Bucket Challenge for #MND
博士の人生は続いていく…
それ以降のホーキングの人生を知るには、「博士と彼女のセオリー」が必見だ。「ホーキング」の内容だけでは終われない、彼とジェーンの恋の話、人生の苦しみや、悲しみといった奥行きが綴られた作品になっている。
木々を揺らす強い風と夏の日差し ジャン・ルノワール「草上の昼食」
おおらかに自然に包まれる夏の午後
マネの「草上の昼食」と同名の映画作品は、夏に見るのにふさわしい。
絵画のような映画の中でも、特に映像であることに意味のある作品だ。画家の息子であるジャン・ルノワールだからなせる画面構成は動く絵画のよう。
それだけでなく、一人一人に個性があり、マネの怜悧とも思える現実的な画風よりもずっと、人間味があるジャンの父オーギュスト・ルノワールを多く引き継いでいるように感じる。
特に、水浴びする裸婦像を思わせる輝きがまばゆい。
ストーリーは、あまり問題ではなく、溌溂とした若い女の子の肉体が自然のなかに動いているところを見るための映画だ。演出されたエロティックではなく、自然でおおらかな様子がすがすがしい。
強い風が吹いて木々が揺れる。そこにいる人たちの心も揺れる。見ている方もちょっとざわざわするような。そういうちょっとした日常が描かれているのではないかと思う。夏の日差しと、明るい笑い声が印象に残る素敵な作品。
※エドゥアール・マネ「草上の昼食」
※オーギュスト・ルノワール「もたれる裸婦」
※ルノワールの作品を生で見るなら8月22日まで
「民族の祭典」 レニ・リーフェンシュタールの美的世界
鍛えられた肉体の美しさという幻惑
オリンピックイヤー2016年はリオ五輪に沸いている。テロによる世界の不安定な情勢や、IOCの裏金、ロシアのドーピングといういくつもの懸念事項がある中でも、真摯にスポーツに打ち込むアスリートの姿は美しい。
ヒトラーに利用され、ナチスのプロパガンダとなってしまったレニ・リーフェンシュタールの作品「民族の祭典」。
徹頭徹尾、美的に鍛えられた筋肉美を捉えた、女性監督の目。
古代ギリシアの頃から、神に近ずくために裸で行われたというオリンピアを再現したように美しい肉体が画面にあふれる。
アーリア人を礼賛する目的に政治利用されてしまったのは、大きな罪だけれど、一つの作品として、スポーツする身体に向き合った結果生まれた美的な映画でもある。
迫力のあるカメラワーク。躍動する肉体。
今日オリンピックを見ていて、カメラの多さには驚く。重量挙げでは、床からの視線まであった。体操での超スローモーション映像など、人の肉体、超人の身体活動にはあくなき魅力がある。
そういう人心を突いた作品は、元ダンサーのレニ・リーフェンシュタールならではのものだったのかもしれない。恐ろしく美しい、呪われた作品だ。
80年代ノスタルジーという安心感 「レネットとミラベル」 感想
「レネットとミラベル」下高井戸シネマにて 2016.7.13.
色とりどりなフランスの80年代
エリック・ロメール監督の「レネットとミラベル」1986年 はヌーベルバーグの流れをくむ4つの短編からなるオムニバス形式。
田舎の純朴なレネットと、都会的なパリジェンヌのミラベルが出会い心を通わせていく爽やかなストーリーで、田舎の場面が1編、街に移動してからが3編になる。
製作されたフランスの80年代は、ユーロビートのディスコ全盛期で都会的な若者文化が特徴だろう。全編80年代のカラフルな服装に目を奪われる。
田舎では草むらの中の赤いレインコート、パリの部屋のポップなカーテン、女詐欺師の青いコスチュームなど、画面が飽きることなく彩られている。
「ふるきよき」80年代ブームによせて
80年代というと、日本ではアイドルとかバブルとかのほほんとした風潮が思い起こされる。もちろん、その時代と前の時代には様々な葛藤や問題もあったのだろうけれど…。
ネット文化もなく、湾岸戦争も、日本の震災もまだ起こっていない時代は、今の混沌とした情勢から見たら、ちょっとしたエアポケットに見えるのかもしれない。
「レネットとミラベル」には、一時、平和だった時代を象徴するノスタルジーが満ちている。外国の女の子が普通に生きて、悩んで、友人とたわいのないおしゃべりをしている。幸福感のある映画だ。
一番好きなのは二人が出会う田舎編
「青の時間」をめぐる共通の体験を通して、友情が芽生える。秘密を共有することは、女子の絆を深めるということ、ロメール監督は見逃さない。感性の違う二人の女の子が、共有するのが全てが沈黙する完全に孤独な時間というのは、感傷的だ。
そして、映画を見ている私たちにもその時間を共有させている。今回は上映で見られたけれど、夜にDVDで見るのも良いかもしれない。
レネットという不思議な存在
レネットもミラベルもそれぞれにチャーミングで可愛い17歳。知的で美しい非の打ちどころのないミラベルと違い、レネットはオーラや主張が強い印象。
実際、レネット役のジョエル・ミケルは、女優業よりも作家としても画家としても活動するアーティストになっている。「レネットとミラベル」も演技というよりも、彼女のそのものの魅力がロメールの巧みな会話劇で引き出されている。
不思議すぎるレネットだけでは成り立たないところに、ミラベルがいる、この作品のバランスの良さだは完璧だ。
「悲しみよ こんにちは」 サガン名作を読む・見る夏に 感想
海に持っていきたい本
「悲しみよ こんにちは」フランソワーズ・サガン作
コートダジュールでバカンスを過ごす、ブルジョワたちのひと夏を描く。
恋愛にただ現を抜かすことのできないのがパリジェンヌ。17歳のセシルが新しい感情と出会う葛藤が、小さな出来事の連続で語られている。
大人の世界への憧れと、人の心の不条理に気づいた少女の鋭い視線が描かれた夏の名作。河野万里子さんの新訳はテンポがよいので読みやすく、海へ文庫を持っていくならこれがおすすめ。
映画版 セシルカットのジーン・セバーグ
「悲しみよこんにちは」1957年 のオットー・プレミンジャー監督作品。
ジーン・セバーグを発掘したことで有名な作品。原作から脚色されているけれど、17歳の少女の葛藤はきちんと描かれている。
セシル役ジーン・セバーグの表情のアップが美しい。海のある風景も美しい。父親のデビット・ニーブンと浜辺を歩くシーンは文句のない美しきブルジョワのバカンス。
(アメリカイギリス合作のため、主役はフランス人ではないけれど)
父親の再婚相手になる、アンヌ役のデボラ・カーも美しい。セシルは美しくて知性溢れるアンヌに憧れながらも激しい嫉妬を抱くようになる。
セシル、父親、アンヌと、立ち位置が変わろうとする中、少女の残酷な悪戯が暴走する。
無垢な表情の少女が自分の中の残酷さに出会う戸惑いが際立っている。無垢さと残酷さ、このアンビバレントな共存がジーン・セバーグの「勝手にしやがれ」に続くテーマだと思う。
※サガン自身を知りたいならこちらがおすすめ。
これぞ知的ブルジョワの退廃的なアンニュイの世界。 その中にいながら外側から見つめるような客観的な目を持っているのが、サガンの魅力かと。
「ムード・インディゴ~うたかたの日々」 幸か不幸か、美しきロマンスの夢 感想
お祭の後のような悲しさが良い
ミュージックビデオ風の映像の遊びも多く、ちょっと疲れるときもあったけれど、全体的に見て良かったという幸福感を感じられる作品だ。
この作品を見て、ミッシェル・ゴンドリーはただの夢想家ではないと確信。
「エターナルサンシャイン」でも、「恋愛睡眠のすすめ」でも、見られないくらいの悲しさやむなしさを感じさせてくれる。
映像の奇抜さと物語の悲しさのアンバランスに引き込まれる。幸せなら幸せなほど、裏側に潜む影が怖くなる。作品でも大きな影が妻のもとに駆け付ける夫を追ってくるシーンは象徴的だ。
ボリズ・ヴィアン「うたかたの日々」の映像化
アニエス・ヴァルダが僕に言ったことを思い出す。「いい映画を撮ってくれるように願うわ。だってみんな、あの本が大好きだもの」。
変わるのは物であって人じゃない─ゴンドリー監督が『ムード・インディゴ』に託したもの|ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を映画化、その想像力の源泉について聞く - 骰子の眼 - webDICE より
原作を読んでいないので、言及できないけれど、多くの人があがめる恋愛小説を映像化するのは勇気のいることだ。ここで、ミシェル・ゴンドリーが大きなプレッシャーの中仕事をしていたことが分かる。
私は原作に忠実に作ることよりも、原作のイメージを持っていない人が見て、一つの作品として飛躍なく完成していることの方が重要だと思う。
どの登場人物も活き活きとしていて、それぞれの人らしく、物語にのせられるのではなく、自分たちで物語っていくところがとても気に入った。
オドレイ・トゥトゥ、ロマン・デュリス、オマール・シイ…。この三人がピックニックをしている一番幸せで、一番不幸な場面が大好きだ。
過去の思い出を胸に、睡蓮のように眠る
結婚して、その先にどんな不幸が待っているとしても、二人の過去の一番美しい思い出は宝物なんだと思う。それぞれの想いは違ってしまっても、一番美しい日々は結晶のように残っていくということを最後に登場したネズミちゃんが教えてくれる。
その思い出を胸に、ついに永遠の眠りについた妻の気持ちを失意の夫にいつか知ってほしいと思う。救いのないストーリーでも、救いを求めるなら、二人で初めてデートしたあの時を忘れないでいてほしいということだろう。
※ミシェル・ゴンドリーの他の作品
※新作も登場します!www.cinemacafe.net
元気が出るラブコメをチャージ 「タイピスト!」 感想
なんかほんわか上京恋愛ものがたり
タイピングがもてはやされ、女性の職業として憧れのまとだった時代に、田舎から上京してきた女の子がトップを目指すサクセスストーリー。
時代の雰囲気が服装やメイクに現れていて眺めているだけでも、ポップで明るい気持ちになれる。
お決まりの、ドS上司(ロマン・デュリス)との恋模様は、はいはいきたきた、と思ってしまいそうだけど、役者が良い。
おっちょこちょいな秘書ローズを演じるデボラ・フランソワのあか抜けない、まっすぐな純情がけなげに映る。ロマン・デュリスも日本人から見てイケメンなのか微妙なラインだけど、こういう自信満々な男いるよなーと思ってみていた。
自分が秘書だった頃を思い出す。秘書は上司に認められ信頼を得なければ成り立たない職業。どんなに気を回しても回し過ぎることはない。日程などを管理するだけでなく、体調や心情まで察する能力が求められ、夫婦のような部分を持っている…。
から恋にもつながりやすい??なんてことはなく、常に神経を使うあの辛さが分かる。
逆に、恋してしまうと、仕事にならないという葛藤が、見ていてもどかしかった。私は恋はしなかったけれど。
ローズが素晴らしいのは、タイピストのトップを目指すという自分の夢にまっすぐなところ。男が絶対の権力を持っていただろう時代に、女性が職業人として、アスリート?として、専門的な技術を高めようという姿はかっこいい。
ふんわり柔らかいふりをして、やっていることは芯があって強いところが魅力的だ。
ラストは、お決まりお決まりだけど、見ると元気が出る!タイピスト!おすすめ。デボラ・フランソワかわいい。
ジュリエット・ビノシュ&ルー・ドラージュW主演 「待つ女たち」 イタリア映画祭レポート
2016年5月1日 有楽町朝日ホール イタリア映画祭
「待つ女たち」上映+監督の質疑応答
フランスだけでなくハリウッドにも進出し、今では大御所となったジュリエット・ビノシュと、新進気鋭、ほぼ無名だったルー・ドラージュのダブル主演。イタリアのシチリアを舞台に、息子の喪失に戸惑う母と、亡くなった息子の恋人とが過ごす数日の様子を繊細に描いた作品。
チャーミングなピエロ・メッシーナ監督のQ&Aでは、作品制作の裏話から、映像に込められた想い、仕掛けが語られた。
【作品あらすじ】
喪に服すイタリアの屋敷では、石仮面のような女性(ジュリエット・ビノシュ)が電話に向かって言葉少なに話している。彼女は若い息子を亡くしたばかりの母親で、電話の相手はその恋人だった。
彼に会いに来る彼女(ルー・ドラージュ)は、ちょっと不安げだ。大きな屋敷では葬儀が行わrているが彼女には恋人が死んだことは告げられない。違和感を感じながらその屋敷に滞在し、彼からの連絡を待つことになる。
母親は息子の恋人とすごすことで、次第に生きていくことの苦しみや辛さを受け入れられるようになっていく。
【作品のみどころ(ネタバレ含む)】
・生気の抜けた母の表情に対して、何も知らない恋人の奔放な感情表現は対比的に描かれている。私有地の湖へ入っていく時の光をいっぱいに浴びた健康的な背中は生を強く感じさせる。
・彼女から息子の様子を聞き出そうとする母。トルコ風呂(サウナ)に二人ででかけるシーンは、焦りのような策略のような会話が投げかけられる。事実を知る者が、隠されている者を翻弄するようでヒリヒリする。
・「生きていれば次の恋をする。それは昨日だったのかもしれない。」死んでしまった息子に対して生きている彼女は前を向いていくべきだと、突き放そうとする母の言葉。これはなかなか言えない。
・シチリア島の復活祭を舞台に亡くなった息子を探し求めるクライマックスは、聖なるものによって心を開放するようなシーンになっている。暗闇と蝋燭(?)の火の対比、浮かび上がる白頭巾の集団がおどろおどろしい。
【監督質疑応答からの話】
(映像について)
役の心情や、今後の展開などを象徴し、暗示している。
(作品の背景)
子どものころに見たシチリアの復活祭が心にかかり、それを突き詰めていった。
(女優について)
この母親を演じられるのはジュリエット・ビノシュしかいないと思った。ルー・ドラージュはオーディション最後の日に遅刻してきた。それまでの恋人役のイメージを覆すような新規性があり、30分のオーディションがかなり長引いた。彼女の遅刻によってイタリアへ帰る便を逃したとも。
(ラストシーンについて)
息子が必ず行くはずだった復活祭の中であたりを見回しても、どこにも見つけられない。生きていてほしいと熱望する息子は死んでいる。それを受け入れた瞬間だった。
【作品感想♪】
始まってすぐは暗い画面、暗い表情に暗澹たる気持ちがした。しかし、見終わってみればすがすがしい、心の蓋がゆるむような気分になった。子どもを思う母親の気持ちは、いつでも偉大だ。その偉大さによって、母親は苦しめられる。
その子どもを急に失えばなおさら。見えなくなっていた息子の姿を見たいから、彼の恋人を引き留め、彼女の記憶の中から探そうとしたのだろう。その姿は、恋人の彼女にとっては(bizarre)変に移り、居心地の悪さを感じていた。
重ねた嘘がばれること、その露呈の仕方に気をもむ。ここで重要なのが、家の使用人の男性。フランス女性による心理戦や、言葉遊びなどが続く中、どっしりとしたイタリアらしさを感じさせてくれる。彼の視点は、どこまでもまともなので映画の進みにバランスを与えてくれる。
息子を探すシーンで仮面の表情から、本当の自分に戻ったビノシュの演技が素晴らしい。ここにいるはずの子がいない不安と、苦しさがあらわされている。泣き叫びながら探したかった、そして見つけたかった息子との叶わぬ再会には胸を締め付けられる。
悲しみで不感症になってしまう自分の心を少しづつほどいていく過程が繊細に丁寧に描かれている。悲しいんだけれど悲しめない人がいる、悲しみをうけ入れることも生きているということなんだと教えられた。
※noteに出してい記事ですが、有料にしていたら誰にも見られなかったためこちらに引っ越しました。見てもらうのは、なかなか難しいですね。
「ポンヌフの恋人」 もうじきパリ祭、花火のポンヌフを背景に 感想
レオス・カラックス監督 1991年 フランス
夏の夢のような映画
パリの歴史の始点、シテ島にかかる橋、ポンヌフ(新しい橋)を舞台に、運命的に心を通わせる男女の物語。
その日暮らしの大道芸人と、片目失明寸前の美術学生という破滅ギリギリラインの二人。暗闇の中に火を吹く、ドニ・ラヴァン演じるアレックスのシルエットが頭にこびりつく。そして、セーヌ川のジェットスキーをする、ミッシェルをジュリエット・ビノシュが演じる。
アレックス3部作の三作目で、主人公アレックスの成長というか変貌が注目される。ボーイミーツガール、汚れた血とは違った、完成されつつある破綻した男の有様が見事だ。
世の中には上手くいくことばかりではない。アレックスの行動は基本的にムチャクチャだ。そんな彼にとってミッシェルの存在はたった一つの救いで、希望だ。暗闇の部分があるからこそ、この恋の輝きが際立つ。
「ポンヌフの恋人」は、パリの幻のようなラブストーリーに仕上がっている。だから、ラストは「まどろめ」という言葉が適当なのか。
ラストシーンは雪のポンヌフだが、やはりこれは人生の夏の夢のような映画なのだ。
ポンヌフの中のパリ祭
フランス映画史でも、超大作として名高い「ポンヌフの恋人」は、映像美でパリのイメージを強く印象付けた。その中には打ち上げられる花火と、改修中の寂しいポンヌフが対比されることで、パリ祭の一瞬をより強く華やかに演出している。
作中で見られるカトーズジュイエとも言われる【7月14日】のパリ祭では、フランスの独立を記念して毎年軍事パレードが行われるのが目玉だ。
他にも夏らしいイベントが盛りだくさんの一日になる。野外クラシックコンサートも人気がある。そして、ポンヌフの恋人でも見られた花火が情熱的で美しい。普段物憂げなパリも、この日ばかりはお祭ムードに染まる。
今年は、テロの影響もあるかと思うけれど、それでもカトーズジュイエを祝うのが、共和国フランスの、パリのエスプリなんだと思う。
※映画では撮影許可の期間に間に合わずセットによる再現
ハネケ監督「愛、アムール」 夫婦のダンスはいつまでも続く 感想
ミヒャエル・ハネケ監督 2012年 オーストリア、フランス、ドイツ
最愛の人だから 話がこじれる
発作から半身麻痺の後遺症を残し、認知症を患っていく妻と、「もう入院はさせない」という約束をした夫の愛のストーリー。
見終わって、あまりの重苦しさに、息をついた。
だれもがきれいに歳をとって、きれいに最期を迎えるという奇跡は望めないことはわかっている。けれど、徐々に自分を失ってしまうなら、残していく家族とどうやって別れればいいのか、元気な時の意識がなくなってからでは、選びようもない。
そして、愛があるからこそ、がんじがらめになっていく介護者。妻を献身的に介護しているこの夫は不幸なのか、至福なのか誰にも判断はできないんだろうと思った。
そういう、一歩引いた目で作られたストーリーに、淡々としているからこそ戸惑う。
ぎこちなく身体を支え、妻を移動させる夫。その歩みはたどたどしいダンスを踊っているようだった。
そして、娘役のイザベル・ユペールの存在感。夫婦の間には入っていけない愛の膜があって、家族であってもそれは破ることはできない。そういう寂しさを表現していた。
世界に妻と夫の二人だけだったら、自由に、二人の思い通りにできるのだろうか。この作品は、そんなおとぎ話のような愛の話なのかもしれないと思った。
人生の終わり、誰と過ごすのか、今はまだわからない。でも必ず来るその時を思わせる重い作品だ。